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落語家・錦笑亭満堂インタビュー

「誰かに導かれたときのほうが、うまくいく」…ピン芸人から転身した落語界の異端児・錦笑亭満堂が語る「挑戦」と「継承」

「誰かに導かれたときのほうが、うまくいく」…ピン芸人から転身した落語界の異端児・錦笑亭満堂が語る「挑戦」と「継承」の画像1
(写真:杉山慶五)

おたまと下駄で「おったまげた〜」――。2000年代、バッグの中から次々と小道具を取り出し、ダジャレを披露するネタで『爆笑オンエアバトル』(NHK)や『笑いの金メダル』(テレビ朝日系)などに出演していたピン芸人・末高斗夢。

2011年8月、落語家の三遊亭好楽に入門し、「三遊亭こうもり」として活動を開始。その後、「三遊亭とむ」に改名し、2023年7月に真打に昇進すると同時に「錦笑亭満堂」となった。初代「錦笑亭」として新たな活動を始めることとなる。

お笑い芸人としての活動も続けながら、さまざまな展開を見せる型破りな落語家に「錦笑亭満堂として生きること」について話を聞いた。

被災地での一言で芸人として自信喪失

――芸人から落語家に転身したきっかけは何だったのでしょうか?

錦笑亭満堂(以下、満堂) 2011年頃、芸人としてのテレビの仕事が減り、ライブや営業、副業でなんとか食いつないでいました。「これからどうしようか?」と考えていたときに、東日本大震災が起こり、仕事はさらに激減します。

――当時はバラエティ番組も「不謹慎」という理由でしばらく放送されませんでした。

満堂 そんな中、宮城県気仙沼市で「ボランティアとして現地を盛り上げてほしい」という依頼を受け、ネタを披露しに行きました。しかし、うまくウケず、会場の空気が微妙な感じになってしまったんです。そして、中学2年生くらいの男の子が「がんばれー!」と声をかけてくれました。その瞬間、会場が一気に盛り上がったのですが、笑わせているというよりも、笑われている感じがして……。芸人としての生き方に悩むようになりました。

――誰も悪気はないんですけどね……。

満堂 そこで、春風亭小朝師匠に相談してみたんです。すると、「落語家になっちゃえば?」と提案していただきました。

――そんな気軽な感じで勧められたんですね。落語には触れたことがあったのですか?

満堂 落語を見に行ったことや、アマチュアとして少し教わったこともありました。しかし、お笑いと落語はまったく異なるものなので、自分が落語家になるとは思ってもいませんでした。それでも、小朝師匠から「うちでは引き取れないから、三遊亭好楽兄さんのところに行ってみたら?」と言われ、紹介してもらったんです。すると、とんとん拍子に話が進んで、気付いたときには弟子入りさせてもらいました。

――27歳からの転身ということですが、不安はありませんでしたか?

満堂 不安でしたよ。芸人の仕事がかなり減ったことで、その少し前には芸人仲間に「舞台役者になる」と吹聴していた時期でもあったんです。そのせいで、「今度は落語家? また始まったか……」と言われてしまいましたね。それどころか、「落語界に入ったら芸人には戻れないぞ」とも心配されてしまいます。しかし、「27歳で仕事が減っているということは、このまま40歳になる頃にはもう目も当てられない状況になるのではないか」と考え、まだやり直せるうちに落語界に入門する決断しました。弟子入りしたのは震災から5カ月後の8月6日。奇しくも師匠好楽の誕生日でした。

芸人の世界とはまったく違う落語界

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(写真:杉山慶五)

――被災地で逆に応援されてから、急展開ですね。

満堂 そこからの3年間は修行の日々でした。お茶を出したり、着物を畳んだり、太鼓を叩いたり……。自分の師匠の雑用だけをすればよいわけではなく、すべての師匠の雑用をこなします。物の持ち主を把握し、それぞれ正しい風呂敷に包んで渡したり、もちろん高座に上がって落語を披露することもあります。芸人としてキャリアを積んできた自負はありましたが、またイチからのやり直しということで、当時はかなりつらかったですね。

――最初から落語家になることに乗り気だったのですか?

満堂 正直にいうと、まったく……。せっかく、小朝師匠に師匠好楽を紹介していただいたのですが、一度怖気付いて「お笑い芸人と落語の二足は草鞋は厳しい」と断ろうと思っていました。しかし、師匠好楽から「明日は僕の誕生日だからその日が入門。あと君の名前は決まっているから、おめでとう」と言って電話を切られたのです。それで、弟子入りを決意しました。本当はただ、落語家になるために背中を押してほしかっただけなのかもしれません。

――芸人と落語家の間で揺れていたんですね。

満堂 おそらく、うちの師匠好楽のところでなければ、落語を続けられなかったと思います。小朝師匠は僕の人間性を分かってくれていて、「好楽兄さんのもとなら続くだろう」と紹介してくれたのだと思います。小朝師匠は、人間関係を鋭く観察されていらっしゃいます。

――プロデューサー視点ですね。

満堂 僕は小朝師匠にいろいろアドバイスをいただいても、なかなかそれを実行することができず、5年後くらいにふっと理解することが多いんですよね。だから、このときも小朝師匠の采配で師匠好楽に弟子入りできたのは、本当に幸運だったと思います。まるで宝くじに当たったようなものです。

――修行中もR-1グランプリの決勝戦に進出していましたが、芸人との二足の草鞋のような感じだったのでしょうか?

満堂 本来、前座修行中はほかの活動をしてはいけない決まりがありましたが、うちの師匠は「エントリーしていいよ」言ってくださいました。そのタイミングでR-1グランプリの決勝に進んだのですが、優勝できなかったため、翌日にはテレビからのオファーは何もありませんでした。

――R-1には夢が……。

満堂 そこから普通に落語の前座修行を続けていたら、先輩方に「こいつは本気で落語に取り組んでいるんだな」と思ってもらえました。当初は「芸人として食えなくなったから落語家に転身したのか?」と、いけすかないと思われていたかもしれません。しかし、少しずつその評価が変わっていったような気がします。

――落語の世界に入って驚いたことはありますか?

満堂 前座を務める際、本編に入る前に「枕」と呼ばれる演目に関連した話をするのですが、そこでウケを取ったことがありました。そのとき、「あの話は誰に教わったの?」と聞かれたので、「自分で考えました」と答えたら驚かれたんです。改めて、芸人の世界とは全然違うんだなと感じましたね。

――「枕は大事」と言われていますが、本来はそこも継承なのですね。

満堂 それから、落語界はお笑い界と違い、お客さんとの距離がとても近いんですよ。打ち上げにお客さんが参加することもあって、最初は驚きました。お正月には、毎年親族のように親しいお客さんを集めて落語を披露するのですが、その後は必ず打ち上げがあるんです。というか、落語よりも打ち上げがメインのような雰囲気ですね。お客さんのお酒を作ったりもして、「すごいシステムだな」と驚きました。

武道館でフェスを開催! しかし、延長料金が……

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(写真:杉山慶五)

――そんな、満堂さんですが、実は落語家以外にもイベント企画の仕事もしているんですよね?

満堂 長いこと芸人を続けているので、多くの芸人仲間に助けていただいています。そんな仲間たちを呼んで、イベントを企画したり、地方の自治体のイベントなどでは、その仕切りを任せてもらうこともあります。地方では、若者が集まりそうな場所にそのターゲットに合わない演者さんをブッキングしたりと、ちぐはぐなケースがよくあるんです。そんなときに、出役である僕なりの目線で、地方を活性化させるような仕事をさせていただいています。

――完全にブッキング担当ですね。

満堂 また、2024年のクリスマスにはアーティストのファンクラブイベントの司会を務めたこともあります。そのとき、トナカイの格好で司会をしたのですが、スタッフさんから「真打なのにこの衣装で大丈夫ですか?」と心配されてしまいました(笑)。

――2023年には、大御所芸能人ばかりが出演するフェスも主催されました。

満堂 真打に昇進し、「錦笑亭満堂」という名前をいただいた記念ですね。2024年には『満堂フェス in 日本武道館』というイベントを開催しました。かなり豪華なゲストに出演してもらいましたよ。オファーもギャランティの交渉もすべて自分でやりました。

――DJ KOO、ピコ太郎、AMAMIYAなど落語界以外からも多数ゲストが登場し、6000人の観客を沸かせました。

満堂 本来は3時間半で終わる予定だったのですが、かなり押してしまって。最後に僕が落語の『芝浜』をやって締めるはずだったのですが、スタッフから「時間がかなり押しているので、『芝浜』カットはいかがですか?」と真剣に言われました。

――えっ。

満堂 落語を披露するために武道館を借りているため、これをやらなければ意味がない。ということで、時間を気にせず、しっかり演じきりました。

――おぉ……。カッコいい。

満堂 結果的に1時間25分も押してしまい……。日本武道館というのは、1分ごとに延長料金が発生するんですよね。それもかなりの額で……。その結果、多額の借金を背負うことになりました(笑)。

――なんと……。延長料金で赤字というのは、かなりつらいですね。

満堂 「こんなに借金を抱えてるのに、よくヘラヘラ酒なんか飲めるね」と言われることもありますが、好きなことをやっていて楽しいからこそ、続けられるんです。気持ちはずっと学生の文化祭の延長線上にあるようなものですね。でも、このやり方でなんとか食っていけているので、大丈夫なのでしょう。

自身が主催するフェスの準備中に本も執筆

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(写真:杉山慶五)

――お金周りで仕事に支障は出ないのでしょうか?

満堂 まだ、銀行がお金を貸してくれているので、僕には一応、社会的信用があるということなんですね。パンクしないで済んでいるのがありがたいですね。それと、僕には「ケツに火がつかないと動かない」という悪い癖があるので、常に自分を追い込んでいくスタイルを貫いています。

――いろいろな仕事をされていますが、すべてひとりでこなしているんですか?

満堂 さすがに手が回らなくなってきたので、スタッフさんにお願いしていますね。基本的なオファーやメールの返信など、急用を除いてすべて任せています。ただ、『満堂フェス』を開催する時期は、かなり心がキャパオーバーしていたので、あまり記憶がないんですよね。そのタイミングで『ウチの師匠がつまらない』(PARCO出版)という本の執筆もすることになり、エピソードを書いては編集者さんに送り続ける日々でした。

――本来は執筆だけでも相当体力を使うものです。

満堂 武道館のプレッシャーと本の執筆が重なり、バタバタしてしまって、毎日イライラしていた気がします。今思うと、あのときは本当によくなかったなと思います。

――かなり大変な毎日ですね。

満堂 本の執筆も、話した内容を誰かにまとめてもらうのではなく、すべて自分で書きました。僕、パソコンがまったく使えないので、文章を書くときはスマホなんです。でも、フリック入力ができないので、トントントントンと指を連打して文字を打っていました。それを見ていた人に「高橋名人みたいだな」とバカにされましたね(笑)。とにかく、書いた文章をすぐに編集者さんにLINEで送るという日々でした。200ページ以上書いたので、かなり大変でした。

――なかなか大変な作業でしたね……。それでは、最後に今後の展望を教えてください。

満堂 初代「錦笑亭」という名前をいただいたので、この名前を大きくしていかなければならないと思っています。芸人時代は本名の「末高斗夢」で、落語の世界にも入っても同じ名前を使いながら「三遊亭とむ」として活動していました。しかし、せっかく小朝師匠「錦笑亭満堂」という名前をいただいたときは、またイチからのスタートになってしまうのではないかと一抹の不安も感じてしまいます。

――言ったって2000年代はしっかりとテレビに出演されて、知名度もありましたからね。

満堂 ところが、師匠は「『とむ』という名前を使い続けると、心が新たにならない」と考えていたようです。「錦笑亭」を背負っていくには、それくらいのきっかけと覚悟がないと難しいと思われたのでしょう。小朝師匠のおかげで落語家になることができて、師匠好楽のおかげでこうして食べていくことができています。

生涯現役でいるために今を生きる

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(写真:杉山慶五)

――芸人と違って、名前を師匠がつけるというのも、よくよく考えれば独特ですよね。自分で決められないというのは、不安にもつながりそうです。

満堂 でも、これは個人的なジンクスですが、僕が自分で決めたことは、なぜかうまくいかないんですよ。誰かに導かれたときのほうが、うまくいくことが多い。だから、このときもそれを受け入れてみようと思ったのです。

――だからこそ、「錦笑亭満堂」の知名度を上げていかなければならないですね。

満堂 YouTubeやTikTokにもきちんと手を出しています。でも、やっぱり僕はテレビで育ち、テレビが大好きなので、まだまだそこを目指して生きたいんですね。もちろん、舞台やラジオもがんばります。

――ほかにも心がけていることはありますか?

満堂 昨年、満堂フェスをやったときに「やり切った……。もう、死んでもいいかも」と思ってしまいました。しかし、それではダメだと思い、毎回、27歳で落語家に転身したときのような初心を忘れないようにしようと決意したのです。ということで、今年も3月16日に、立川ステージガーデンで『満堂フェス』を開催します!

――フェスは毎年開催を目標にして続けていく予定なんですね。落語家としては、今後どのように生きていきたいですか?

 落語はじっくりと育てていきたいと思っています。60歳、70歳になっても、自信を持って披露できる落語をしたいですね。なんとなくですが、今のうちに40代を一生懸命やらないと、50代から仕事が減ってしまうのではないかという危機感があります。そう考えると、60歳定年という制度は、意外と理にかなっているのかもしれません。生涯現役でいるために、これからもがんばる必要がありますね。

錦笑亭満堂(きんしょうていまんどう)
1983年12月31日生まれ、東京都出身。三遊亭好楽一門の落語家。1999年に本名「末高斗夢(すえたか・とむ)」の名でお笑いデビュー。2011年、三遊亭好楽に弟子入りし、三遊亭こうもり、三遊亭とむを経て、2023年7月1日に真打に昇進し、「錦笑亭満堂」となる。2025年3月16日、立川ガーデンステージで「満堂フェス」を開催予定。出演はマギー司郎、COWCOW、ニッポンの社長、そして三遊亭好楽など。

(取材・文=山崎尚哉)

山崎尚哉

1992年3月生まれ、神奈川県鎌倉市出身。レビュー、取材、インタビュー記事などを執筆するほか、南阿佐ヶ谷でTALKING BOXという配信スタジオを運営中。テクノユニット・人生逆噴射の作曲担当で別名DJ.YMZK。

X:@yamazaki_naoya

山崎尚哉
最終更新:2025/03/13 22:00