『べらぼう』“写楽複数作家説”の信憑性と短命絵師だった本当の理由

前回(第46回)の「べらぼう」は謎の絵師・写楽をめぐり、「源内先生=写楽」という噂を流した蔦重(横浜流星さん)チームと、源内(安田顕さん)が存命だと自分の犯罪が暴かれてしまうので、なんとか真実を確かめたくなった一橋治済(生田斗真さん)の暗闘が続きました。つまり前回の内容の大半が完全なフィクション。それでもこれを「大河ドラマ」として見ることができたのは、すごいことです。これまでの『べらぼう』が、要所要所で歴史的事実をしっかり押さえてきたからでしょうね。
蔦重の妻「てい」(橋本愛さん)が、蔦屋耕書堂にふたたび歌麿(染谷将太さん)を連れてくることに成功したシーンも印象的でした。あいかわらずニブチンの蔦重に歌麿が、おていさんをちゃんと見てやれ、そうやって(好きな相手のために)自分を差し出してしまうヤツがいるんだから(要約)と一喝するシーンが良かったです。セリフひとつで、場の空気や、登場人物の関係性がガラッと変わってしまうところは、まさにお芝居の魅力であり醍醐味といえます。
史実における蔦重と歌麿は、ちょうど東洲斎写楽の登場あたりでモメたっきり、蔦重が亡くなるまで疎遠だったようですけど、『べらぼう』では歌麿先生は別の版元で仕事し続けるが、個人的な関係は完全に修復されたと描くのでしょうか。
さて……今回は、あらためて東洲斎写楽複数人説を筆者なりに検証してみました。
前回も書きましたが、江戸時代の書物『増補浮世絵類考』によると、写楽の正体は「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿洲侯の能役者」――阿波藩(徳島藩)蜂須賀家に仕える能役者(能楽師)と書かれているのですが、これに筆者が引きずられ、仮に写楽が斎藤十郎兵衛ではなかったとしても、別の一人の絵師が写楽の正体であると信じ込まされていたと気付いたのです。
前回は、芝居町の一角に写楽売り出しのための“ポップアップストア”を開店していた蔦重ですが、ずらりと並べられた役者絵が圧巻でした。史実でも坂口涼太郎さんが熱演の「グニャ富」こと中村富三郎のように「これがアタシ!?」とショックを受ける役者たち、そしてその贔屓筋も多かったはずですけども、かなりのヒットだったようですよ。写楽の絵をウチワに張った女性を描いた浮世絵が存在しているくらいですから……(栄松斎長喜の『高島おひさ』)。
また、美術館で見る写楽のオリジナルはいくら保存状態が良いとはいえ、売り出されてから200年以上経過しているため、我々が前回目にしたような豪華絢爛な黒雲母摺(くろきらずり)の背景と、あざやかな役者の部分のコントラストなどは味わえません。さすがNHKが誇る小道具班の仕事でした。
それにしても誰も知らない、そういう意味で「新人」だと思われる謎の絵師・写楽の作品に、売れっ子絵師にもなかなか使わないような、黒雲母摺を採用とは……。蔦重の経営方針は破天荒に見えても、どうすればマネタイズできるのかをしっかりと考えているのが常でしたから、写楽デビューについては、かなりの額の入銀が(それこそドラマにおける松平定信が用意してくれたように)あったと見るのは自然なのです。
また、スポンサーの意図がちゃんとあって、写楽は、その正体が誰なのかを世間に当てられることがないように売り出された……そう考えるべきなのかもしれません。
そして、「べらぼう」における写楽=複数作家による共同制作説については、考えれば考えるほど、妙な説得力があるのです。
なぜ写楽の活動は短期間だったのか?
寛政6年(1794年)5月〜寛政7年(1795年)3月ごろにかけての約10カ月という短い活動期間にもかかわらず、写楽の作品は4期に分けて売り出されました。
黒雲母摺の大判28枚組のシリーズが写楽の第1期。
そして、その好評を受けて発売された第2期では、主な7枚の背景だけが白雲母摺となりました。
続く第3期では全58点もの作品が一挙に売り出されたものの、一枚あたりの豪華さと、絵のパワーがガクンと落ちた印象です。第3期で特筆すべきは役者の全身や、背景が描かれるようになったことですが、「本当に同じ画家?」と思わせるほどに画力低下が著しく、「役者絵とはこういうもの」というお約束にも縛られている印象です。1~2期にあった「勢い」が削がれてしまっているんですね。
プロとして絵画の教育を受けたが、そこまで才能はないマイナー画家たちが、写楽の黄金期の作例を苦労して再現している印象さえあります。ほかに注目すべきは役者絵だけでなく、7歳にして約70キロもあった少年力士・大童山の肖像などまで含まれており、確実に迷走が伝わってくる点でしょうか。
そして最終シーズンとなった第4期は、翌年の春に売り出されたものの、たった10枚だけという寂しさでした。そして、このまま東洲斎写楽はフェイドアウトした……というのが世間一般の見方なのですけど、最初から写楽作品は、複数名による共同制作の結果生み出されたのだが、1~2期のメインライターが第3期以降、何らかの理由で抜けてしまったのではないかという推測が成り立つのです。
第3期以降、葛飾北斎(ドラマではくっきー!さん)も学んだ勝川派特有の描き癖が強くなっているので、残った人たちが抜けてしまったメインライターと、あるいはメイン級実力者の穴を埋めようと必死になっている感じもするんですね。同時に、1~2 期では唯一無二のオリジナル感の手指などの描写についても、第3期以降はプロとして絵のトレーニングを積んだ人が描いた印象があります。想像をたくましくすると、1~2期はプロではないが、おもしろい絵が描ける人(=斎藤弥十郎)が制作チームに紛れ込んでいて、プロの下絵を「直して」おり、それを蔦重が許していたのかもしれません。
筆者が写楽複数名説にリアリティを感じてしまうのは、“写楽プロジェクト”から抜けてしまったメインライターと思われる描き手の作品が、その名も「歌舞妓堂艶鏡」という雅号で(略称は歌舞妓堂)、しかも写楽の活動時期の直後に発表されていた事実があるからです。
寛政7年(1795年)3月で写楽は活動停止しましたが、歌舞妓堂はその年の秋から翌年(寛政8年・1796年)の春までの半年間活動し、姿を消しているのです。
しかし歌舞妓堂の作品が、写楽人気を背景にヨソの版元がマネして描かせたようなものではないことは、『三代目市川八百蔵の梅王丸』などの作品の完成度から明らかです。このクオリティは一朝一夕で得られるものではない気がするんですね。
しかし、歌舞妓堂の役者絵にも写楽風のディフォルメや、ドラマでさんざん言及されている蘭画(洋画)的要素が認められる一方、役者を「セクシーなイケメン」として描こうとしている意識が表れていて、これが写楽作品との徹底的な違いとなっている気がするのです。
写楽の活動が短期間で終わったのは「歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまり真(まこと)を画(えがか)んとてあらぬさまを書なせしかば長く世に行れず、一両年にして止」んだ――役者の実物に似せすぎようとしたから、よろしからぬ絵面となり、世間からも飽きられて1年ちょっとでオワコン化した(超訳)――ということが、写楽=斎藤十郎兵衛説の根拠となる『浮世絵類考』では語られているのですが、それならば適度に理想化された歌舞妓堂の役者絵が写楽に代わって大ヒットしたのかというと、そうでもない。ここは筆者が強く興味を惹かれるポイントでした。
歌舞妓堂の名前は、彼(?)を写楽の正体と主張した20世紀初頭のドイツ人美術研究家のユリウス・クルトの著書『Sharaku』が日本国内で人気を呼ぶまで、ほぼ忘れられていました。
クルトの主張どおり、歌舞妓堂が写楽その人とまではいえないものの、歌舞妓堂も蔦屋主導の写楽プロジェクトの参加者で、メインライター(の一人)だった可能性は高いとは思います。
そして、おそらく第3期で全58点という常識はずれの大量発注をかけてきた蔦重のオレ様ぶりがイヤになって、辞めてしまったのではないか……ということも想像できるのですが(ドラマでなら、そういう行動が取れるとしたら、歌麿でしょうか)、しかし歌舞妓堂のようにデッサン力があり、魅力的な作品に仕上げるだけの画力もあったところで、それだけでは第1~2期の写楽作品が放つパワーには及ばない気がする筆者でした。
しかし、本当に蔦重が多くの個性的すぎる名手を束ね、写楽プロジェクトを切り盛りしていたのであれば、「べらぼう!」だというしかありません。適材適所を見抜く能力は、江戸一番の目利きといわれた蔦重だけのことはありますね。
――と、ほぼ完全ドラマオリジナルのストーリー展開を見せている『べらぼう』の筋書きに口を出すのは野暮ですから、今回はとくには触れませんでしたが、写楽人気とその突然の停滞をどう描いていくのかも含め、最後まで楽しみに拝見することにしましょう!
(文=堀江宏樹)
