【述懐】山口組分裂問題の転機となった五代目山健組・中田浩司組長が下した決断

その声は獄につながれていながら、社会へと発せられた。
2020年7月、殺人未遂および銃刀法違反容疑(一審無罪)で勾留中であった中田浩司・五代目山健組組長が、神戸山口組からの離脱を指示。それは、ともに六代目山口組を割って出た井上邦雄組長(神戸山口組)と山健組が袂を分かった瞬間であり、神戸山口組の凋落を印象づけるものとなったのだ。
獄中のヤクザの楽しみ「キットカット」
それまでも神戸山口組では、分裂や幹部組員らの離脱、引退が相次ぎ、発足時に比べると勢力を衰退させていた。それでも神戸山口組の中核を担う山健組が屋台骨を支えていたことで、六代目山口組と事を構えるだけの組織力はなんとか維持していた。だが、その山健組が神戸山口組を離脱し、六代目山口組へと復帰を果たしたのは2020年8月。2015年から続いてきた六代目山口組と神戸山口組の勝負が、事実上、決した瞬間と言えるのではないだろうか。
神戸山口組の結成当初、中田組長は山健組傘下である健竜会のトップとして、六代目山口組から離脱した他の大物組長らと同様に知られた存在であった。健竜会は、創設者が五代目山口組・渡辺芳則組長であり、山健組の保守本流といわれる組織。中田組長は山健組一筋といわれる組長で、若き頃は地元の和歌山県で暴走族として活動し、その名を轟かせ、健竜会へと加入。渡世の道を歩み始めた。
その健竜会で頭角をあらわすと、1984年に起きた他組織との抗争では組織のためにジギリをかけ(体を張り)、首謀者として徳島刑務所で長期社会不在を余儀なくされている。
当時の徳島刑務所には、有名な親分衆らが服役していたのだが、中田組長もそうした強者がそろうとされた刑務所の中で、一つの工場を取り仕切り、その名前を広めていたという。
そして出所後は、健竜会で最高幹部を歴任し、2005年六代目山口組体制がスタートすると、五代目健竜会会長へと就任。そして2018年には、山健組のトップへと登り詰めたのであった。
その翌年、殺人未遂及び銃刀法違反容疑で逮捕されるも、前述の通り、2020年には獄の身でありながら、山健組執行部に神戸山口組からの離脱を指示。翌月には六代目山口組へと復帰することになった。
そして昨年10月31日、一審で無罪判決を受けた中田組長は、社会に帰還後、瞬く間に六代目山口組の若頭補佐に昇格した。
「山健組といえば数多くの組員数を誇っており、その勢力は山口組内でも上位に入ると言われています。中田組長は武闘派として知られるだけでなく、組員のことを考える親分としても知られています。神戸山口組からの離脱も、組員らの将来のことを考えてのことではないでしょうか。山健組は山口組の中でも名門中の名門です。そのトップとして、六代目山口組に戻るのが筋と考えられたと思われます」(ヤクザ事情に詳しいジャーナリスト)
山健組の六代目山口組復帰を機に、山口組分裂問題はクライマックスに突入したと考えられてきた。
「後は、井上組長を筆頭とした六代目山口組から離脱した組長ら次第だろう。六代目山口組側は離脱した組長らを処分しており、存続を認めていない。彼らが引退し、組織を解散しない以上、手を緩めることはないだろう。逆に言えば、引退、解散をすれば、長く続いた分裂問題も終わることになる」(業界関係者)
六代目山口組の分裂後、特定抗争指定暴力団に指定され、事務所の使用制限がかかるなど、組織を取り巻く環境は大きく変化したが、山健組の復帰に代表されるように組織の形態は少しずつ元の形に戻りつつある。分裂問題の終焉は着実に迫ってきているようだ。
(文=山口組問題特別取材班)
山口組分裂問題の現在地
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