井上尚弥「衝撃のダウン」は世界的スターへのきっかけに?“勝負論”が生まれた日

レフェリーストップの瞬間こそにわかに不満そうな表情を浮かべたが、試合後のラモン・カルデナス(メキシコ)は清々しく勝者を称えていた。
ラモンはこの日、代役だった。メキシコ人にとっての大切な週末「シンコ・デ・マヨ」、舞台は米ラスベガスのTモバイルアリーナ。パウンド・フォー・パウンド2位の評価を受ける井上尚弥に挑むのは、メキシコで抜群の人気を誇る若手のエース、アラン・ピカソのはずだった。
しかし直前になってピカソが井上戦をキャンセル、本人はSNSなどで戦いたい意向を示していたが、井上には勝てないと踏んだ陣営が出場辞退を申し出たと伝えられ、白羽の矢が立ったのがラモンだった。
ボクシングの世界では、別人がリングに上がることがある。替え玉という意味ではない。強烈なモチベーションを抱いたボクサーが、まるで別人のような仕上がりを見せることがあるのだ。
この日のラモンは、今までのどの試合とも似ていないラモンだった。ガードを高く上げ、強烈なジャブで迫るモンスターをその両の拳の隙間から見据えていた。2ラウンド中盤に研ぎ澄まされたワンツーで井上の鼻から出血させると、ラウンド終了間際に居合い抜きのような左フックのカウンターを顔面にブチ当て、腰砕けになった井上はマットに尻もちをつく。
「ダウンの瞬間は見ていなかった。パンチを出したら客席から叫び声が上がって、振り返ったら井上が倒れていた」
試合後のラモンはダウンシーンをそう振り返る。
昨年5月、東京ドームのルイス・ネリ(メキシコ)戦以来、井上にとっては生涯2度目のダウンだった。また左フック。あのときより、井上のダメージは明らかに深い。両ひざをついて8カウントを待つ井上。立ち上がって2つステップを踏んだところでラウンド終了のゴングが鳴ったのは、井上にとって幸運だったかもしれない。
「すごい楽しかった」と、試合後の井上は笑顔を見せた。ダウンについては「驚いた」と語ったが、3ラウンドから再びプレッシャーをかけ始めたモンスターは5ラウンド中盤に右のクロスカウンターを差し込んでダメージを与えると、7ラウンドには右の4連打でラモンが崩れ落ちるようにダウン。その後は一方的にタフなメキシコ戦士の余力を削り切った。
8ラウンドTKO。7ラウンドまでのスコアカードは、井上のダウンがあった2ラウンド以外フルマーク。終わってみればいつも通り、モンスターの圧勝である。
だがこの日、明確に井上尚弥に“勝負論”が生まれることになった。
「負ける可能性」がボクサーを輝かせる
井上にとってもっともハードだった試合は2019年11月のバンタム級WBSS決勝、ノニト・ドネア(フィリピン)戦だった。2ラウンドに左フックを受けて右目を痛め、以降「相手が2人に見える」という状態に陥った。結果的には11ラウンドにボディブローでダウンを奪い3-0の判定勝ちとなったが、ドネアの右を受けてグラつくシーンもあり、再戦への気運が高まっていった。
22年6月「DORAMA IN SAITAMA2」と銘打たれた井上尚弥vsノニト・ドネアの再戦には、勝負論があった。世界5階級を制覇してきたドネアの左フックは数々の伝説を作ってきた。その左は、井上に当たることも証明されている。オッズこそ「井上1.16/ドネア5」とかけ離れたが、ファンの間ではドネア勝利を支持する声も決して少なくなかった。
そのドネアを、井上はたった2ラウンドで切り捨ててしまった。正味4分24秒、それは全盛期のスターが往年のベテランを叩き潰す残酷なショーとなった。この試合の直後、井上はパウンド・フォー・パウンドランキングで日本人選手として初めて1位に選出されている。
「負ける可能性」がある試合でインパクトのある勝ち方をすることが、ボクサーをもっとも輝かせる唯一の方法である。この日のラモンとの試合、井上楽勝ムードだったTモバイルアリーナの観客は9,000人弱。2万人のキャパシティを誇る聖地において、井上はまだ1人で客を呼べる世界的スーパースターではなかった。
中谷潤人戦にたどり着くために
今後の井上のロードマップは9月に名古屋でムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)、年末にフェザー級に上げてサウジアラビアでニック・ボール(イギリス)が既定路線のようだ。そして来年春には、井上自身が中谷潤人との対戦を明言している。
いずれも井上有利とされるだろうが、この日ラモンが繰り出した左フックは今後の対戦相手にとって大いに勇気を与えることになるに違いない。井上のこれまでの相手の中には、リングに上がった瞬間に勝ち筋を捨てて逃げ回る者も少なくなかった。だが、ドネア第1戦、ネリ戦、そしてラモン戦、井上には左のロングフックが当たるのである。
井上が今年の2戦をクリアして中谷までたどり着けば、両者のファイトマネーは合わせて20億を超えるともいわれている。
そして現在のバンタム、スーパーバンタム、フェザー周辺のトップ選手を見渡したとき、もっとも変な角度から左のロングフックを振ってくるのは中谷である。当たるかもしれないのだ。そして一度効かせてしまえば中谷の詰めの鋭さはラモンの比ではない。
「勝負論」がボクサーを輝かせる。この日のダウンは、井上にとって世界的スーパースターへの道が開けた一撃だったのかもしれない。
(文=CYZO sports)