詐欺を働くなりすましの偽アカウントが200個以上も!? うつ病と裁判で波瀾万丈な毎日を送る水道橋博士の奮闘記

ビートたけしの右腕として知られ、「浅草キッド」のツッコミ担当として長年テレビで活躍してきた水道橋博士。客員教授やメールマガジンの編集長などタレント以外の活動も精力的に行い、2022年には政界入りを果たした。
しかし、かつて患ったうつ病が再発してしまい、約3カ月で議員活動を終えることに。ここ数年は病と向き合いながら、ゼロからの再スタートを切ろうとしている。
そんな博士の波瀾万丈な日々について話を聞いた。
完璧主義が仇となり政界でうつ病に
――2023年8月、うつ病から復帰してライブ活動を再開されました。しかし、これまでの仕事はすべてなくなり、ゼロからの状態でやり直すのは大変だったのではないでしょうか?
水道橋博士(以下、博士) テレビ・ラジオのレギュラーはなくなりましたね。大変は大変でしたが、僕はもともと「ない」仕事をゼロから作ることも、新しい仕事に挑戦したり、人間関係を新たに構築していくことにも意欲的で、楽しいと思う性格なんですよ。たくさんの出会いがあって面白いです。とはいえ、自分だけですべてをイチから始めてみると、マネージメントからスケジュール管理、雑務まで、今まで全部事務所がやってくれていたんだとわかりました。自分の社会人としての未熟さを知ったり、改めて事務所がいかにありがたい存在だったのかを実感しましたね。
――うつ病再発のきっかけはなんだったのでしょうか?
博士 選挙に出馬したときは「反スラップ訴訟法案成立」「消費税廃止」「奨学金の返済をゼロに」など、いろいろと政府に反対するスローガンを掲げました。しかし、いざ当選すると、れいわ新選組はまだ弱小政党だから、一年生議員でも委員会をたくさん兼務することになります。自民党のような巨大政党ではないため、とにかくすぐに打席が回ってくるのです。それでも、僕は僕で即戦力になりたいわけだから、意欲もあるし、当選した責任感もあるし、「選挙は助走であり、本番は国会だから」と、やる気満々でした。ただ、政策秘書がなかなか決まらずに出遅れてしまい、委員会への質問案を作るのも一苦労でした。
――成長途中の政党ならではの悩みですね。
博士 そのうち各省庁の官僚の人たちが、「先生は、この法律ができるまでの議事録はお読みになりましたか?」「なぜこの制度はデメリットだと言えるのですか?」と事前に多様に多重に質問をしてくるようになりました。僕は基本、根っこは真面目だし、完璧主義者の部分もあるから、無理してでも徹夜で議事録や法案を読むわけです。しかし、法律の基礎教養がないし、官僚が作る「霞が関文学」なんて難解な迷路の連続だから、質問案が膨らまない。だから、さらに勉強する……。これを繰り返していると、突然脳が容量オーバーで動かなくなってしまいました。
――うつ病はどういう状態に陥るのでしょうか?
博士 何も考えられないし、何も話せない。脳が完全にオーバーヒートした状態です。これでは国会議員はとても務まらない。精神疾患は、人それぞれに個体差があるけど、僕の場合はインターネットの誹謗中傷で心が傷つくとかそういうことではありませんでした。その辺のメンタルは強いというか……客観的です。
――SNSも休止されましたが、原因はネットではないのですね。
博士 僕の場合は体力や精神や神経もあるけど、脳の許容量の問題だと思う。今回のうつ病は当選直後に、京都で映画『福田村事件』の撮影も入っていたのも関係したかもしれない……。低予算映画だし、撮影のスタッフとキャストは京都で合宿していたのですが、僕の場合は、国会の委員会がいつ始まるかわからないから、新幹線で毎回往復していたんですよ。真夏の京都盆地の猛暑の中、子どもを殺すようなウルトラ右翼の在郷軍人会の役を軍服で汗だらけで演じて、その合間に参議院会館では政治資料に没頭しながら、いわゆる左翼政党にいるわけじゃない。その落差にも体力を奪われたね(笑)。うつが発症した真っ最中なんだけど、皮肉にも、この作品も僕も入魂の演技って絶賛されて、キネ旬の助演男優賞第3位にもなったんだから不思議なもんです。
――官僚やほかの政党の議員から、嫌がらせのようなこともされたのでしょうか?
博士 嫌がらせではないよね。それは職務だと思いますよ。現政権の下で働いている官僚は、省庁のトップである大臣に答弁をさせているわけだから、当然、忖度しますよ。おそらく、体制側の議員もすべての資料を読んで理解しているわけではないと思いますが、反対意見を述べる野党側は、法律を熟知、理解したうえで常に確信を持って攻めることができるようにしておかないといけない。その点で、僕は経験値もなく知識もついていかなかった、という感じです。「維新の会」の同期当選の中条きよしさんが文教委員会で、自分のリサイタルの話や新曲を歌っている様子を見て、呆れ返りましたね。あんなんで良ければ、僕も議員は務まりましたよ(笑)。
スラップ訴訟のために家を売却

――うつ状態のまま前大阪市長・松井一郎氏と裁判は続いていましたね。
博士 そもそも、政治家になろうと思ったきっかけはそこです。僕が作ったものでもないのですが、松井氏の生い立ちを追ったYouTube動画があったんです。それをTwitter(現・X)で引用して紹介したところ、松井氏は僕を名誉毀損で訴えてきました。しかも、その投稿をリツイート(現・リポスト)した4000人もの市民も訴えると脅迫してきたのです。それは許せなかった。典型的な権力者による市民へのスラップ裁判、口封じの裁判……。こうした「訴権の濫用」を規制したいから、自分が政治家になろうと思ったんです。
――「反スラップ訴訟法案作成」のために議員になったのですね。
博士 今もって大問題だと思いますね。巨大な組織や権力者が自分に不都合なことを言われれば、裁判沙汰にした相手の体力や財力、社会的な地位を奪っていく。社会への見せしめにもなるし、言論も萎縮していきます。皮肉なことに裁判の途中で、松井氏が市長を辞めて、僕が国会議員になって、当初のスラップ裁判の権力者と一般人の構図は失われました。しかし、僕が政治家を辞めて、仕事も全部なくなり、収入がない状態のままでも、裁判は続いていました。その間の弁護士費用もあるし、長く戦う気力も疲弊するわけです。完全にスラップ訴訟の手口にはまってしまいました。
――判決は1年後の2023年に出ました。
博士 最終的に最高裁の審議に棄却されたので、2審の高裁判決で結審して、賠償金110万も払わなくてはいけなくなりました。「理不尽すぎる。絶対に負けない」と思っていた裁判で負けてしまって……。しかも、多額の費用が飛んでいって、かなり大変でした。裁判は「僕がXで松井氏を名誉毀損とした」としか世間に伝わっていないけど、本質とはまったく離れた議論です。裁判の全容を知る人はほとんどいません。でも、お金の問題ではないんですね。本来、この裁判はもっと可視化して、スラップ裁判そのものが理不尽な社会問題として訴えていきたかったです。
――裁判の資金はどうやって捻出できたのでしょうか?
博士 うちは家族5人で生活費はもちろん、子どもたち3人は就学中で学費もあるので、選挙の前から「いったん家を売りましょう」となって、引っ越すことになりました。もともと、終の住処として20年前に建てたデザイナーハウスでした。家は9000万円で売れたんですが、売った不動産屋が中国人に1億8000万円で転売したらしくて、今ではインバウンド家族向けの一泊8万円の民泊施設になっているそうです。直近の夢は家族でその家に8万円払って一泊することですね(笑)。
――ご家族は怒らなかったのですか?
博士 うーん。選挙だとかうつ病だとか、これだけ僕が50代から波瀾万丈だと家族も大変ですよ。一時期は離婚危機までいきましたが、なんとか今は立て直していますね。
――うつ病から復帰した後、最初はどうやって仕事を取ってきたのですか?
博士 とりあえず、ウーバーイーツを運動とリハビリと映画の撮影を兼ねて始めました。1日だいたい5000〜8000円くらいは稼いでいたと思います。僕は新しい環境をゲーム感覚で楽しめるので、それはそれで面白いし、1日中、働いてクタクタになって、最後に銭湯に入るのが至福の時間でした。「これが生きているってことだ」と実感が湧いたんです。途中から「水道橋博士がウーバーをやっているらしい」と話題になって、たまに声をかけられることもありました。去年の元旦に下血をして緊急搬送されて、九死に一生を得るような危機もあったのですが、結構長い期間を毎日、続けていました。その間は全部、ドキュメンタリーで撮影しています。撮影向けに短期間だけやったわけではないんです。
――ほかにも仕事をされていたのでしょうか?
博士 あとはトークイベントの企画、主催ですね。これまでのつながりがあった人を呼んでイベントを立ちあげました。今までのようなタレントとして出演料をもらって出演するだけではなく、自分でライブの企画、構成、キャスティング、事務所との出演交渉、ギャラ設定、台本まで全部やっています。すると、当たりハズレもあって興行師としては面白いんです。それに、今は配信もあるので、売り上げの上限がない。だから、ドル箱イベントも企画できたりして、今ではトークライブがメインの収入源になっています。あと、最近は「虎人舎(とらじんしゃ)」という出版社も立ち上げました。
――その出版社では、ご自身が社長をされているのですよね?
博士 はい。完全にインディペンデントな活動です。過去には執筆者が60人を超える日本最大のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』の編集長はやっていましたが、今は出版そのものをやっています。本が売れない時代だからこそ、自分でやりたくなったんです。これまで僕が出した中で絶版になってしまった本を復刊させたり、過去に名作と評価されながら絶版になっている書籍の出版権を取得して、再出版したりすることに取り組んで進めています。まずは、5月の文学フリマに初参加して2冊を上梓しました。一冊は僕の担当編集者だった、文藝春秋を定年退職した目崎敬三さんの編集者奮戦記である『博士と僕と平成サブカル史』。もう一冊は『銭湯は裏切らない』という銭湯エッセーです。2冊とも、面白いので、ぜひ手に取ってほしいですね。生来の活字好き、紙好き、本好きなので、これはライフワークになるでしょう。
愉快犯たちが跋扈するSNS

――こうしたさまざまな仕事のアイデアは、どこから生まれるのでしょうか?
博士 人との出会いですね。高円寺に行きつけのバーがあって、そこで出会った人と「何かやろうよ」という話になることが多いです。「出会いに照れない」に尽きます。最近も、高円寺駅前でライブハウスを立ち上げたという方が店に来て、グランドピアノがあるというので、「じゃあ清水ミチコさんを呼んでイベントできるじゃん!」と盛り上がったりして。そういう偶然のきっかけから新しい企画がどんどん生まれますね。1年前に出会った23歳の若林凌駕という若い子と組んで、年齢差40歳で「14歳」という漫才コンビも始めました。もう出場も果たしましたが、ライブのオーディション、チャンレンジ枠にエントリーしています。僕は年齢的には大御所のはずなのですが、新人の楽屋に居るだけで若返りますね(笑)。浅草キッドとは全然違う出口があるから、今、漫才の新ネタもバンバン書いています。改めて、ネタを書くこと、歌手で言えば、歌うことだけでなく曲を書くことがそもそも好きなんですね。
――今後の展望について教えてください。
博士 本来なら隠居してのんびり老後を楽しむ歳だけど、今進めている出版社やイベントの活動は、そのまま続けていくつもりです。新たに挑戦したいと思っているのは、バーの経営ですね。僕は根っからの話好きだから、バーのいろいろな人が素性も知らないままふらっと立ち寄って、いろいろな話をしていく、相手を理解していく過程、空気感が好きになりました。いずれは、高円寺・阿佐ヶ谷あたりに、自分の理想のバーをつくれたらいいなと考えています。意外だったのは、うちのカミさんもママ業に興味を持っていたことです。夫婦で60代と50代の水商売デビューにも夢があります。何事もタイミングですね。そして、今は新たな裁判案件の解決も目指しています。
――裁判案件?
博士 僕の偽アカウントがSNS上に増えているんです。そのなかでもひとりで1000個くらいアカウントを持つ悪質であり凶悪な男がいて、そのアカウントに騙された被害者も日本中にいるのです。僕の名義だけでも200以上のアカウントを持って、BANされてもすぐに乗り換えて復活してくるんです。
――なんですか、それ……?
博士 これは当事者でないとわかりません。しかも、この男がやっていることは差別や殺害予告にあたるような行為で、母子家庭や障がいのある方など社会的に弱い立場の方々ばかりを狙っている。なのに「それを放置している博士が悪い」という話になっていて、意味がわからない状態が続いています。
――本当に謎ですね。
博士 そして、この男を放置するX社にも問題があります。だから、僕が中心となって開示請求を進めているのですが、なにしろ件数が多すぎて……。それでも、これから本格的に対応していくつもりです。泣き寝入りになる人が多い中、今度こそちゃんと可視化していきます。
――とはいえ、開示請求で賠償請求が認められても、相手に支払い能力がなければ回収は難しいのでは?
博士 実際に何件か開示請求してみてわかったのですが、偽アカウントを使って金儲けを狙っていたというより、愉快犯的な動機でやっている人が多いんです。そのため、確かに支払い能力がない人がほとんどで、お金を回収するのは厳しいと思います。そこで、X社などSNSの運営会社に対して直接賠償請求するような方向で、弁護士と一緒に対応を組み立てているところです。みんな、こういうときは「しょうがない」と他人事で済まそうとしますが、被害者と当事者にとってみれば理不尽で、かわいそうですよね。ちゃんと「悪いことは悪い」ということが、世間にまっとうに認識される。僕は生涯芸人でいたいですし、政治家も志半ばで潰えましたが、復活したなら、このような社会活動も続けていきます。それと、今、苦しんでいるうつ病の人たちへのフォローや対策への貢献もしていきたいです。僕が当事者、経験者のひとりとしてね。
――6月28日にはドキュメンタリー映画『選挙と鬱』が公開されます。
博士 本作は自主映画ですが全国展開にも全力投球したいです。まだ32歳の監督ですが、彼のドキュメンタリー作品は世界的に評価されています。宣伝費がないぶん、監督と僕とキャストは選挙のときのように日本中を回って、どんな取材にも応じようと思っています。ぜひ、なんでも申し込んでください。自分が元気なときには真面目にふざけて精一杯働きたいですね。
(構成=山崎尚哉)
水道橋博士(すいどうばし・はかせ)
1962年8月18日生まれ、岡山県出身。本名は小野正芳。ビートたけしに憧れて上京し、たけしと同じ明治大学に入学するも、わずか4日で中退。その後、たけしに弟子入りし、浅草フランス座での活動を経て、1987年に玉袋筋太郎と漫才コンビ「浅草キッド」を結成。「ザ・テレビ演芸」(テレビ朝日系)では10週連続勝ち抜きを達成(1990年)。1992年からは「浅草橋ヤング洋品店」(テレビ東京系)で注目を集めた。
YouTube公式チャンネル『博士の異常な対談』はこちら
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