松井秀喜の育成・ON対決・阿部慎之助の起用…巨人の伝説を生きた男──長嶋茂雄「2000年の奇跡」とその継承

2025年6月3日、ミスタープロ野球・長嶋茂雄がその生涯を終えた。89歳。数々の名場面と記録を残し、戦後日本のスポーツ文化に多大な影響を与えた彼は、単なる名選手でも名監督でもない。「伝説」そのものだった。
彼が紡いだ数々の名場面の中でも、2000年のシーズンは特別な意味を持つ。松井秀喜を育ててMVPに導き、20世紀最後の「ON対決」に勝利して日本一をつかむ。そして最終年には次代の主柱・阿部慎之助を抜擢し、愛弟子・原辰徳に継承して指揮官人生に幕を下ろした。
だが、あの年の巨人は決して盤石なチームではなかった。多くの故障、不調、迷い、そして葛藤があった。そんな苦境を乗り越えてこそ、長嶋茂雄という存在の大きさが際立つ。
苦しみの中に始まった2000年シーズン
華やかに見えた2000年のシーズン。その実態は、春先から不安に満ちていた。
1999年に新人ながら20勝を挙げ、沢村賞に輝いた上原浩治は、疲労の蓄積からかシーズン序盤から調子を崩す。開幕戦では広島の前田智徳に痛打され、シュート回転の甘いボールが狙われて敗戦。エースの不振は、チームに大きな影を落とした。
攻撃陣にも誤算があった。期待のスラッガー・高橋由伸は開幕からスランプに陥る。さらに、4番候補として注目されていた清原和博はキャンプで故障し出遅れ。ショートのレギュラー候補・二岡智宏も故障などで調子が上がらず、不安定な戦力で開幕を迎えることになった。
こうした混乱の中で浮上したのが、外国人選手ドミンゴ・マルティネスの存在だった。清原不在の穴を埋める形で5番打者としてスタメン出場すると、開幕から好調を維持し、攻撃の軸となった。後に清原が復帰した後も、モチベーションを落とすことなく5番として稼働し続け、シーズン中盤まで打線を支えた。
また、チームを陰で支え続けたのが“元木大介”の存在だ。主力の不調や離脱に合わせて、遊撃、三塁、外野を自在に守るユーティリティプレイヤーとして出場。試合数こそ目立たないが、数字以上の価値ある働きでチームに安定をもたらした。
上原が本調子でない中、先発陣の再構築が急務だった。そこで期待に応えたのが、ベテラン工藤公康、新外国人のダレル・メイ、そしてルーキーの高橋尚成だった。
特にメイは、前所属の阪神では大きな成績を残せなかったが、巨人移籍1年目で大きく開花。チームトップの投球回を記録し、ローテーションの軸を担った。メイの安定感があったからこそ、当時37歳の工藤を含めたほかの投手陣の負担が軽減された。
中日との開幕3連戦ではこの3人を投入し、見事3連勝を飾る。前年優勝の中日へのリベンジを果たし、チームとして勢いをつける大きなきっかけとなった。
この時期から、チームは徐々に調子を上げ、夏場には首位を独走。投打がかみ合い、いよいよ“本気の長嶋巨人”が姿を見せ始める。
2000年9月24日、東京ドームでの対中日戦。巨人にとってはこの本拠地最終戦で勝てば優勝が決まる重要な一戦だった。だが、先発の上原が4失点と精彩を欠き、8回まで中日・前田幸長の前に沈黙。誰もが「今日は無理だ」と思った9回裏、物語が動く。
元木がヒットで出塁すると、高橋由伸が続く。そして主砲・松井秀喜が3連打目でチャンス拡大。満員の東京ドームが揺れ始める中、マルティネスは三振。しかし、続く江藤智がギャラードから起死回生の同点満塁ホームランを放つ。
続く打者・二岡智宏。1年を通して苦しみ続けた男が、この大舞台で振り抜いた打球はライトスタンド一直線。劇的なサヨナラ本塁打となり、巨人は本拠地で胴上げを果たした。
20世紀最後のシーズンにふさわしい、まさに“ドラマ”だった。
松井秀喜を「球界の4番」に育成──ON対決という“野球の夢”
2000年の主役は、誰が何と言おうと松井秀喜だった。
1993年に星稜高校から入団し、最初の数年は苦しんだが、長嶋監督は一貫して彼を4番に据え続けた。細かく技術を教えるのではなく、背中で「信じている」と語るスタイル。松井はその期待に応え、年々成績を伸ばしていく。
そして2000年、キャリアハイの42本塁打・108打点をマークし、本塁打王・打点王・MVPを獲得。日本シリーズでも打率.381、3本塁打、8打点と圧巻のパフォーマンスで文句なしのシリーズMVPに輝いた。
後年、松井は語っている。「監督は、自分を“育ててくれた”というより、“信じてくれた”という存在です」
この「信頼」の関係こそ、長嶋監督の人間的な魅力であり、指導者としての真骨頂だった。
2000年の日本シリーズの相手は、福岡ダイエーホークス。指揮官は王貞治。長嶋茂雄 vs 王貞治。昭和を代表するふたりが監督として激突する“ON対決”は、ファンにとってこれ以上ない夢の舞台だった。
松井、高橋由、清原、江藤、阿部、工藤、上原の巨人に対し、小久保、松中、井口、城島、秋山のダイエー。まさに“スター軍団同士”の頂上決戦。
結果は巨人の4勝2敗。シリーズ全体としては先制される試合が多かったが、打線が粘り強く追いつき、投手陣が踏ん張った。江藤はシリーズ打率.438を記録し、復調した。チーム打率.285に対し、ダイエーは.202と完敗に近い内容だった。
そして何よりも、長嶋茂雄が王貞治に勝った。それだけで、このシリーズは日本野球史に刻まれる価値がある。
阿部慎之助の抜擢──長嶋茂雄が未来に託したもうひとつの決断
日本一の翌年に、長嶋茂雄がもうひとつ重大な決断を下していた。それが、その年のルーキーだった阿部慎之助を正捕手として抜擢するという英断だった。
前年、巨人を日本一に導いた正捕手・村田真一が健在だったにもかかわらず、長嶋はあえて若き阿部をスタメンに抜擢する道を選んだ。これは、監督としてのラストシーズンに下すには、あまりにも大胆で、重い決断だったに違いない。
実はこの起用には、ヘッドコーチを務めていた原辰徳氏の進言があったとされる。阿部の打撃力と伸びしろを高く評価した原は、長嶋に対して強く推薦を行い、監督もその声に応える形で背中を押した。こうして誕生した「阿部慎之助・正捕手」という配置は、後に巨人の未来を大きく左右する布石となる。
当時の阿部は、ルーキーイヤーから開幕スタメン出場を果たすなど注目される存在だったが、その才能と引き換えに、常に重圧と隣り合わせだった。特に「打撃型捕手」と見なされることで、リードや守備面に対する評価がなかなか追いつかず、一時は一塁手へのコンバート案まで浮上していた。
だが、阿部は「捕手として勝負したい」という意志を貫き、試合ごとに経験を重ねながら、自らの存在意義を広げていった。その成長を誰よりも近くで見守っていたのが、原辰徳だった。
やがて阿部は15年以上にわたり巨人の屋台骨として活躍し、主将、そしていまでは監督へと成長していく。その象徴的な瞬間が、2012年のシーズンだった。阿部はこの年、打率.340・27本塁打・104打点という圧倒的な成績を記録した。守っても打ってもチームを支え、「巨人は慎之助のチーム」と原監督に言わしめるほどの存在感を放った。
その12年前、長嶋茂雄が下した“覚悟の抜擢”がなければ、この黄金時代は訪れなかっただろう。
長嶋茂雄は、「私にとって野球とは、人生そのものだ」といって監督を勇退した。不調や怪我、不確定な状況の中でも選手を信じ、采配で未来を切り開いたその姿は、まさに“監督の理想像”だった。
彼の残したものは、勝利だけではない。信頼、継承、そして野球への純粋な愛だ。
そして、あの年の東京ドームの歓声を、我々は決して忘れない。
(取材・文=ゴジキ)