「お金がなくなって、近所の神社から柿を“拝借”して食べてたよ」――『ザ・ノンフィクション』で注目のクズ芸人! ガッポリ建設・小堀敏夫の知られざる半生

『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)出演をきっかけに、誹謗中傷を受けたり、営業の仕事が増えたりと、波乱に満ちた日々を送るガッポリ建設・小堀敏夫。
これまで多くのインタビューで自身の半生を語ろうとするたびに、「半生はいいので“クズエピソード”を話してください」と言われてきたという。
今回はあえて、小堀に芸人を志した理由や、これまでの人生について語ってもらった。
三遊亭圓丈の新作落語に導かれて
――『ザ・ノンフィクション』出演後、生活が変わったと思いますが、そもそも芸人を目指したきっかけは何だったのでしょうか?
小堀敏夫(以下、小堀) 昔、群馬の田舎に住んでいた頃、ジャンパーを買いに東京・上野まで出かけたんだ。でも、道に迷ってしまってね。「ここはどこだ?」とさまよっているうちに、たまたま演芸場を見つけて、ふらっと入ってみた。もともと落語にはそこまで興味がなかったけど、ラジオでビートたけしさんがよく演芸場の話をしていたから、一度見てみたいと思っていたんだ。
――浅草の師匠いじりをよくしていたと聞きます。
小堀 でも、まったく面白くなかった。落語も漫才も、正直ピンと来なくてね。「つまんねぇな」と思っていたら、トリで登場した三遊亭圓丈さんが披露した“新作落語”に衝撃を受けた。メッセージ性があって、心に響いたんだ。その瞬間、「お前も落語をやれ」と言われたような気がしたんだよ。よく「ジョン・レノンに導かれて音楽の世界に入った」なんて話を聞くけど、あれに近い感覚だったね。
――圓丈さんの落語に強く惹かれたんですね。
小堀 その落語の中に「私は足立区の綾瀬に住んでまして」というセリフがあって、それが妙に耳に残ってね。外に出て公衆電話ボックスに入り、タウンページをめくって足立区綾瀬の欄を見ていたら、そこに“三遊亭圓丈”の名前が載っていたんだ。勢いでそのページを破ってポケットに入れた。田舎に帰って、次の日の夜には「弟子にしてください」と電話していた。そしたら「何日に来い」と言ってもらえてね。
――すごい。青春ですね。
小堀 当時はサラリーマンとして、建築工具の営業をしていたんだ。バブルの終わり頃だったから、営業すればどんどん売れたし、1億円分買ってくれる顧客もいたくらいで、成績はかなり良かった。それでも、迷わず辞表を出して上京して、弟子入りしたんだ。
ウケを狙い寝坊しまくった学生時代

――“クズ芸人”として知られる小堀さんが、かつては凄腕の営業マンだったとは驚きです。
小堀 あの頃はバブル真っ只中で、本当にモノがよく売れた時代だったんだよ。経費もゆるくて、「週刊少年ジャンプ」や『ドラゴンボール』(ともに集英社)も経費で買ってた。経理も領収書なんてろくに見てなかったし、ザルだったね。結局、2年くらいその仕事をしていたかな。
――どんな仕事内容だったんですか?
小堀 企業向けの飛び込み営業。会社に直接行って、「よろしくお願いします」と頭を下げて、資料を渡して名刺を置く。たいてい「検討します」で終わるんだけど、帰り際にもう一回チャイムを押して「今、ここに俺来なかった? そいつがルパンだ!」とふざけるとウケるんだよ。そんな営業、ほかにいなかったから社長にも気に入られて、どんどん契約が取れてたんだ。
――かなり変わった営業スタイルですね。芸人になる前から、お笑いのセンスがあったんですね。
小堀 うまくいくと、一社で3000万円とか買ってくれることもあったよ。小さな会社でそれくらいだから、大企業に行っていたら億単位で売れていたかもね。ふざけすぎてクレームが来ることも多かったけど、成績はよかったし、表彰もされたよ。
――昔から破天荒な人生を送っていたんですか?
小堀 小学生の頃から遅刻魔で、毎日のように先生に怒られていた。「どう言い訳すれば笑って許してもらえるか?」ということばかり考えていたね。当時は野球が人気で、みんな少年野球チームに入っていたんだけど、朝7時の練習に3回も遅刻してクビになった。寝坊がひどくて、10時くらいまで寝ちゃうんだよ。
――小学生なのにおじさんみたいな習慣ですね。
小堀 ほかにも、好きな子が通っていたからという理由で行っていた教会の日曜学校も、3回遅刻して「君には向いてないと思う」と言われて、行けなくなっちゃった。
――本当に「仏の顔も三度まで」ですね……。中学生になったら、試験に部活もあるから生活習慣も変わるんですか?
小堀 いや、中学校でも遅刻ばっかりしてた。小中通算で3000回は遅刻してると思う。それで、朝練のある部活は無理だと悟って、囲碁将棋部に入った。活動がゆるくて、ほとんど行かなくても問題なかったし、楽だったよ。部員は3人しかいなかったけど、文化祭のコント大会では優勝したりしてた。囲碁も将棋も、ほぼやってなかったけどね。
――そのときから、すでにお笑いの経験があったんですね。
小堀 高校に入ってからはバンドを始めて、髪を伸ばしたんだけど、髪質が固すぎて全然似合わなくて、ザ・グレート・カブキみたいになっちゃってさ。「これじゃモテない。だったら笑わせて目立つしかない」と思って、モデルガンのライフルを担いで、ろうそくを刺したハチマキを巻いて、エルヴィス・プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」を歌ったりしてた。
――反応はどうでしたか?
小堀 男には爆笑されるけど、女の子には全然ウケなかったね。あの頃は「面白いやつがモテる」という時代じゃなかった。不良か、野球部の4番か、陸上部で足の速い男がモテてたんだ。
ふざけすぎてついに高校を停学処分……

――お笑い芸人がモテるようになったのは、最近の話なんでしょうか?
小堀 そうだね、ダウンタウンさんが出てきてからじゃないかな。俺が子どもの頃なんて、てんぷくトリオの三波伸介さんの「びっくりしたな、もう!」とか、小松政夫さんの「ながーい目で見てください」みたいなギャグがはやってたけど、あんなのでモテるわけないし、芸人に憧れるなんてこともなかった。むしろ、なりたくない職業だったね。
――今とはだいぶお笑い芸人のイメージが異なっていたのでしょうね。
小堀 そして、俺はただ目立ちたくて、笑いを取ってた。例えば、服装検査のとき、不良はとがった靴を履いて怒られてたけど、俺はスキー靴を履いて行って、「すみません、寝坊して急いでたんです」と言い訳したら、「急いでるやつがそんな靴履いてくるか!」と先生に笑われたよ。学校を謹慎処分になったこともある。
――バイクの無免許運転やタバコなどですか?
小堀 いや、スイカ泥棒だよ。近所の畑のスイカを3つ盗んだらバレちゃって。すでに全部食べちゃってたから返せなくて、新しく買ってきたスイカを「つまらないものですが……」と差し出したら、呆れられて…学校に通報されて停学になった。
――キャラクター通りですね……。
小堀 その後、大学を受験したけどどこにも受からなくて、通信制で「中央大学卒」の資格が取れる学校に通った。
――なんですか、それ?
小堀 大して勉強しなくても卒業できたし、それでも「大卒」として初任給がもらえたのはラッキーだったね。職場には明治大学とかの高学歴なやつもいたけど、営業成績は俺のほうが上だった。
――やっぱり、どこか普通じゃないというか、型破りですね。通信制の学校時代はどんなことをしていたんですか?
小堀 そこでもバンドをやっていて、チェッカーズ風の髪型にして、田舎のクラブで演奏していた。バブルだったから、イベントには10組くらいのバンドが出て入れ替わりで演奏するんだけど、一回で10万とかギャラが出ることもあった。メンバーで分けるとひとり2万円くらいだったけど、それでも十分だったね。
――今の下北沢のバンドマンたちが羨ましがりますよ。
小堀 でも、お客が誰もこっちを見てないこともあってさ。悔しくて、なんとかして注目を集めたくなった。当時、街にはパキスタン人が多くて、あるとき彼らをクラブに連れてきて、「今日はハリウッドからジャニスとデイヴィッドが来てくれました!」と紹介して、作業着のままステージに出てもらったんだけど、全然ウケなかった(笑)。
――そのバンドは長続きしたんですか?
小堀 いや、みんな限界を感じてバンドは解散した。俺はまだやれるって思ってたんだけどね。
下品な芸人がテレビに出られなくなった……

――そこから、営業マンになって、落語家へと転身するわけですね。
小堀 弟子入りのときも、実は俺ともうひとりのどちらを取るかという状況だったんだ。相手はちゃんと落語をやったのに、俺は何もわからないから、やけくそで踊ったら、なぜか受かっちゃった。
――やはり、“持っている”んですね。
小堀 いざ落語の世界に入って驚いたのは、周りの落語家が「人を笑わせたい」というタイプより、「落語が好きでたまらない」というやつばっかりだったこと。だから伝統に厳しくてさ。俺がほかの師匠に気軽に話しかけたりすると、先輩に殴られるんだよ。こっちは「ただのじいさん」くらいにしか思ってなかったから、上下関係の機微がわからなくてね。まぁ、俺が一番やらかしてたから仕方ないんだけど。
――具体的には、どんなことを?
小堀 ご祝儀をもらうとき、普通はみんなで分けるんだけど、俺は「増やそう」と思ってボートレースやパチンコに突っ込んでスっちゃったり。
――わぁ……。
小堀 あとは、師匠が真面目に教えているときに口笛を吹いたり、ふざけて花瓶とか電池とかをお盆に乗せて渡したりしていた。あるとき単三電池を出したら、「単二はないのか!」と本気で怒られたこともあった(笑)。
――師匠も判断基準がめちゃくちゃになってますね。
小堀 師匠たちは俺のことをかわいがってくれたんだけど、先輩たちが黙ってなかった。それで謝罪を命じられて、ひとりで師匠の家に行くと、なぜか飯をごちそうしてくれて、小遣いまでくれる。交通費として3000円もらえたりして、5〜6件まわれば2万円を超えるんだよ。「これ、ちょっとしたバイトじゃん」と思って、わざと怒られて謝りに行くこともあったね(笑)。
――まさに“クズエピソード”の宝庫ですね。そこから「ガッポリ建設」を結成されます。
小堀 別の師匠のもとで落語をやっていた室田(稔)とコンビを組んで、コントや漫才をやり始めたんだ。「落語より稼げるぞ」と実感して、4年間続けた落語からスパッと足を洗った。『エンタの神様』(日本テレビ系)にも出させてもらって、月収100万円を超えた時期もあったね。
――当時は「見たことはないけど名前は知っている芸人」の代表格だった気がします。
小堀 でも、俺らが出演しても視聴率が落ちていくし、東日本大震災のあとには完全に仕事がなくなった。俺らみたいな下品な芸風は、テレビから一気に消えたね。
――売れなくなってからは、どうやって生活していたんですか?
小堀 本当にお金がなくなって、近所の神社から柿を“拝借”して食べてたよ。
――えっ?
小堀 ある日、神主さんに見つかって「盗まなくていいから、あげますよ」と言われてね。それから毎日柿ばっかり食べてたら、ガリガリに痩せた。
――いや、そういうことではなく……。
小堀 「もうヤバい」という話をいろんな人にしまくってたら、「ギャラ飲みというのがあるからやってみない?」と紹介されて、なんとか食いつないだ。
――売れないアイドルみたいですけど、おじさん芸人に需要はあるのでしょうか……?
小堀 そこからは『ザ・ノンフィクション』に出たとおり。いまだに取材は続いていて、おかげさまでまた仕事も増えてきてる。最近は文章の仕事も多くて、今は自伝を書いている最中なんだ。これからどうなるかは、まだわからないけどね。

小堀敏夫(こぼり・としお)
1967年7月10日生まれ。群馬県伊勢崎市出身。92年、三代目三遊亭圓丈に入門し、「三遊亭ぐん丈」の高座名を名乗る。97年、室田稔とお笑いコンビ「ガッポリ建設」を結成。『エンタの神様』(日本テレビ系)や、パンダの格好で四つん這いになるネタ「パンダース」として『あらびき団』(TBS系)に出演。2019年、長年所属していたWAHAHA本舗とのマネジメント契約を解除。[F1] 20年4月19日、ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)で放送された密着企画「52歳でクビになりました。~クズ芸人の生きる道~」が大きな話題を呼んだ。
(構成・写真=山崎尚哉)
