KIBA x ANCHANG インタビュー対談 ライブハウスが今よりもバンドと濃密な関係だった

ヘヴィーメタルというジャンルは、その激しい音楽性や世界観により、一般的に市場で売れにくいとされている。1980年代は世界的な流れでハードロック・ヘヴィーメタルが流行したものの、90年代以降は文化の変遷や音楽の多様化もあいまって、一般市場での存在は薄くなっていった。
そんな中、90年代に日本のお茶の間でも大人気となり、J-pop系のアーティストに混ざって音楽番組に出演するようなメタルバンドが存在した。SEX MACHINEGUNSだ。コミカルな歌詞と、演奏しながらバンドメンバーの一糸乱れぬ振付、そして何よりも高い演奏力で多くのリスナーの指示を集め、音楽界を席巻した。
同バンドは現在でもメンバーに変化はあるものの、ベテランの域に入りつつも精力的な活動を続けている。そんなSEX MACHINEGUNSのリーダーのANCHANGとGargoyleのKIBAとの対談が実現した。
――まず、Gargoyleと、SEX MACHINEGUNS、両方ともメタルバンドとして、接点は当然あったのでしょうか。
KIBA:最初はたぶんOn Air Westで、何かのイベントにGargoyleのメンバーもセッションで出てて……。
ANCHANG:そうですね、それです、それです。
KIBA:そこで、SEX MACHINEGUNSを観たと思います。
ANCHANG:96年の2月…いや3月?
――最初の印象はどうでした?
KIBA:ああいう、ステージングを全員で作ってっていくメタルバンドっていなかったんで、珍しいなと思いましたよ。でもたぶん、当時のSEX MACHINEGUNSを観た人はだいたいそう感じたんじゃないですか。新鮮で面白いという印象でしたね。
――ANCHANGさんは当然Gargoyleの存在はご存じでしたよね?
ANCHANG:もちろんですよ。それこそ、自分が完全に素人時代とかにCDも出ているし。しかも『ロッキンF』(※現『WeROCK』。国内メタルバンドを中心とした音楽誌)で、ビデオが出てますよね、クラブチッタか何かのオムニバスかなんかでいっぱい入ってるやつで。
KIBA:出てますね。
ANCHANG:そこがGargoyleの認識ですね。
KIBA:エマージェンシー・エクスプレスっていうオムニバスのアルバムがあって、その発売記念のですね。ZI:KILLとか、かまいたち、とかが一緒に出ていたと思います。

――まだ、SEX MACHINEGUNSがデビューする前ですか?
ANCHANG:デビューする前です。ぼく、まだ学生でした。
――SEX MACHINEGUNSはデビュー何年でしたっけ?
ANCHANG:SEX MACHINEGUNSはデビューしたのは98年デビューです。だからもう26~27年くらいやってますかね。ただ学生時代からやっていたんで……。
KIBA:SEX MACHINEGUNSを?
ANCHANG:はい、合計すると30年越えてますね。
KIBA:いくつから?
ANCHANG:19歳くらいからですね。
KIBA:それ、四国から始めたの(※ANCHANGは愛媛県出身)?
ANCHANG:違うんですよ。これややこしいんですけど、鹿児島の大学にぼく行ったんですよ。
――学科は何だったのですか?
ANCHANG:機械工業。
KIBA:理系。
ANCHANG:しかも鹿児島でも鹿児島市じゃなくて、国分市ってちょっと田舎にあって。そこの学園祭でやったのが始まりです。
KIBA:だから、『桜島』って曲があるのか。
ANCHANG:そうです。リアルに桜島をどーんって見てたんで。
――Gargoyleとか、初期ビジュアルメタルのバンドは聴いていたのですか?
ANCHANG:聴いてましたね。むしろ当時は聴くというより正直研究でした。SEX MACHINEGUNSは実は学生時代は学祭バンドだったんで、あんまり本気ではなかったんですよ。
KIBA:コピーをやってた?
ANCHANG:コピーもやってたし、Sex Pistols(※イギリスのパンクバンド)のコピーをやってたから、SEX MACHINEGUNSだったっていうバンド名も安易ですよね。替え歌みたいなのを当時やってて。
KIBA:その頃からちょっと面白い歌詞に変えてたってこと?
ANCHANG:これもややこしいんですけど、高校生くらいの時から、メタルがすごいやりたいんだけど、ぼくはいま55歳ですけど、世代的に微妙でBOØWYとか、THE BLUE HEARTSとか出てきたんですよ。だからLOUDNESSとかが、ちょっとダサいっていう風潮が出始めてて。
KIBA:少し前の世代って感じだよね。その年頃だと一年前でさえ古いから。
ANCHANG:そうなんです、ジャパメタも大好きだったんだけど、「メタル、ダサー」みたいな風潮が出てきて、しかも猫も杓子もバンドブームで女の子とかもバンドやりだした時期でした。素直にメタルやってても聞いてもらえないし、ダサいって言われた時代だったんです。
KIBA:分かる、分かる。
ANCHANG:それでぼくなりに考えて、ちょっと面白センスとかひねりを入れた方がええんちゃうかと。メタルもやりたいけど、パンクっていう文化も強くなってきてたんで、メタルとパンクを足して二で割ったようなことを、高校生の時ですけど、やったらええんちゃう? みたいな妄想をしてたんです。そこからですね、おかしな方向になったのは(笑)
KIBA:でもパンク的要素はあんまりないよね。
ANCHANG:そうですね、いまはないです。でも当時は演奏力もないし。それこそ、高校生の時なんで、学校の先生をいじるような歌詞を書いたらウケるってことがスタートです。
――Gargoyleも初期のGargoyleは歌詞が独特で難解でしたが、そういった側面は歌詞作りの影響を与えましたか?
ANCHANG:影響を受けるというか、さっきも言ったように研究時代だったんで、俺には無理だって思いましたね。すごい考えられてるし、漢字読めない俺には全くわからない歌詞がいっぱい、こういう世界観もあるのかーって思いました。
KIBA: ぼくもね、あれを書いてるころは難解だってことはさすがに自分でも分かってた。でも「難解だということが分かりやすい歌詞」だとも思ってて。
ANCHANG:あー、なるほど。
――難しいという事がわかる。

KIBA:そう。ぼくはこう思って書いたけど、伝わり辛いだろうなとは思ってて。けどきっとこれは難しくて伝わりにくいものだっていうのは、割りと伝わりやすいだろうっていうイメージでしたね。だから自分は分かってるし、これはこれでいいかみたいな。
ANCHANG:『BALA 薔薇VARA』(※1stアルバム『禊』収録)とかどの曲もキャッチ―でしたからね。大きい内容は分からないですけど。
KIBA:ぼく、英語はカタカナで書けるっていうのが基本だから。『DESTROY』 (※1stアルバム『禊』収録)とか、分かりやすいのが基本。
ANCHANG:どの曲もキャッチ―な部分がちゃんとありますよね。
――Gargoyleの楽曲も研究されたんですか?
ANCHANG:全てですよね、衣装も化粧も演奏も。愛媛の田舎から出て、鹿児島の国分ってもっと田舎に行ってしまったんで、物を知らないわけですよ。しかもSNS時代じゃないから、ビデオとかを手に入れないと分からないわけです。
観たときに「お金もかけなあかんし、演奏も磨かなあかん、歌詞も考えなあかん、はぁこれは俺もう無理だ」と感じました。もっと言うと、上手かったらえらいみたいな、高校生大学生くらいやから、イングヴェイ(※イングヴェイ・マルムスティーン。ノルウェー出身の超絶技巧ギタリスト)が弾けたら天才みたいな思い違いをしているということにすごく気が付いて、「もうだめだこれ」って。
忘れもしないですけれど、大分トップスで東京ヤンキースをチラ見したら、すご!と思って。無理無理これ、あんな髪の毛立てられへんしっていうね、いろんな衝撃を受けましたね。
KIBA:要するに、ANCHANGが学生バンドから次のステップに行くときに、Gargoyleも研究してくれたバンドの中の1つだったってことよね?
ANCHANG:そうです。
――Gargoyleは最初からプロ志向のバンドだったのですか?
KIBA:全くないですよ。
ANCHANG:逆にKIBAさんはどこで変わったんですか?
KIBA:どこで? バンドで行くぜなんて思ったことなかった。
ANCHANG:(笑)
KIBA:いや、本当に。ぼくは生まれて初めてのバンドがこれだったから、あんまり常識もわかってなくて、大阪のライブハウス行ってみたら、当時バーボンハウスっていうのがライブハウス界隈では大きい所みたいなイメージで、もう大学生だったし、卒業もせないかんから、やって1年でそこに出れなかったら、みんなやめようね、くらいの感じで始めたんですよ。でもなぜか5か月くらいで出られたんですよね。それでもうちょっとやってもいいかなって思い始めたかもしんないです。
――そのくらいが、バンドをちゃんとやっていこうというタイミングだったのですか?
KIBA:いや、その時もちゃんとやっていこうとかはないです、全然。長くやれるとかも思ってなかったですし、面白いことやりたい、ってそればっかりだったんですよ。衣装とかも自分らで作ってみたりとかして、ジャケット作ったりとか、そういうのをやってるのが楽しかったんです。
楽しんでやってるうちに、たぶん「あれ?」って思うようになったのは音源を出した時ですね。『禊』を出すまではTOSHI君と住んでて、半年家賃払ってなかったですもん(苦笑)
――家賃払っていない……オールドスクールなミュージシャンっぽくて良いですね(笑)
KIBA:しかも2人で月に23,000円の風呂なしだから、1人11,500円。「もうポケット100円切ったから、バイト探そう」みたいなノリでした。それでただ毎日遊んでて、『禊』が最初売れましたよってときに、ちょっと考えられない金額をもらって「あれ?」みたいな感じ。バカやから1~2か月で全部使って、「月給にしてください」「月で割ってください」って。
ANCHANG:事務所的なものがあったんですね?
KIBA:BAHAMAっていう小さなライブハウスが全部やってくれてたの。音源もそこで作ってもらったし。
――『禊』を出した時も、自分たちで「CD作るぞ!アルバム作るぞ!」っていうノリではなく、どちらかというと、ライブハウス側の提言だったのですか?
KIBA:当時のインディーズメーカーからいくつか話はあったけど、ライブハウスの方から「ここは信頼できないと思うんだ」とかアドバイスをもらったりしていて、最終的に「だったら出してあげるから自分らで作り」みたいな感じで「はーい」って。

――ライブハウスがそれやってくれるって、かなり親切というか良心的ですね。
KIBA:そうですね、ぼくらの場合は他よりすごく強かったとは思うけれども、ぼくら以外に関してもいまの時代のライブハウスより、もっとバンドとの関係が濃密だったと思います。その中でもすごく濃密かつ良くしてもらったんですけど。
――確かにちょっと前のライブハウスはシステムも異なりましたよね。出演するのにオーディションがあったり。
ANCHANG:オーディションどころか、紹介状システムみたいな。
――紹介状なんかあったんですか?
KIBA:わかります、わかります。
ANCHANG:ありましたよね。ライブハウスの方に紹介状を書いてもらってようやく出られるみたいな。
――そんなにハードルが高かったのですね。
ANCHANG:そんなハードル高かった。でも逆に言うと、吐いて捨てるほど、バンドいましたもんね。バンドブームの後なんで、たぶん、猫も杓子も。みたいなところがあって。
――紹介状まで用意していただいて、頑張って出演することができて、集客が甘かったら、次からお前来るな、みたいな感じもあったんですか?
ANCHANG:そういう意味ではさっきKIBAさんが言ったように、ちょっと濃密だったから、「こうして頑張りなさいよ」みたいなところもありましたよ。「こうしないとお客さんに売れないよ」くらいのところまではしてくれてたイメージはありますね。
KIBA:ライブ終わると毎回、大阪の場合はミーティングがありました。
ANCHANG:そうですね。
KIBA:そこのブッキングの方に「今日のライブどうでしたか?」みたいに言うと、「こう、こう、こう」って。
ANCHANG:そういうシステムもありましたよね。
(文・構成=編集部)
※次回に続く