巨額の赤字をもたらした『かぐや姫の物語』 結局、かぐや姫が犯した「罪と罰」って何?

民放のゴールデンタイムに、アート系の映画がノーカットで3時間放送されることが現代では珍しいケースでしょう。1月9日(金)の『金曜ロードショー』(日本テレビ系)は、高畑勲監督の劇場アニメ『かぐや姫の物語』(2013年)がオンエアされます。宮﨑駿監督と並ぶ「スタジオジブリ」の二大巨頭だった高畑監督は2018年に82歳で亡くなり、『かぐや姫の物語』はその遺作になっています。
日本人なら誰もが知っている「竹取物語」をアニメーション化したもので、水彩画で描かれた絵巻ものを思わせる繊細な作画となっています。いまどきの商業アニメとは一線を画する作品です。
劇場公開時には「姫が犯した罪と罰」という謎めいたキャッチコピーが謳われていました。はたして、かぐや姫は何をやらかしたのでしょうか?
高畑監督に憎悪の炎を燃やしていた宮﨑監督
高畑監督が8年の歳月を費やした『かぐや姫の物語』は製作費50億円に対し、興収は24.7億円でした。高畑監督の前作『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)も製作費20億円に対し、興収は15.6億円でした。2作続けて大赤字を出しています。宮﨑駿監督が『もののけ姫』(1997年)で201億円、『千と千尋の神隠し』(2001年)で316億円のメガヒットを続けて飛ばしたのとは、実に対照的な結果となっています。
宮﨑監督は東映動画時代からの先輩であり、博識さと緻密な演出力を持つ高畑監督をリスペクトしていた反面、憎悪の炎も燃やしていました。宮﨑監督が大ヒットさせて得た収益を、高畑監督が喰い潰しているように感じていたからです。
それでも宮﨑監督は、完成した高畑作品を観ては納得せざるを得なかったそうです。一方、高畑監督は宮﨑監督がつくる作品のことをずっと酷評し続けています。高畑監督と宮﨑監督との関係は「盟友」という二文字では済まない、複雑なものがあったようです。
エンタメ性に富んだ『風の谷のナウシカ』(1984年)などでアニメ界に新時代をもたらした宮﨑監督、『火垂るの墓』(1988年)をはじめとする観る人の心に刺さる作品を残した高畑監督、ふたりが交互に作品を発表していた1980~90年代は、スタジオジブリにとってもアニメファンにとっても幸せな時代だったように思います。
お金持ちとの結婚だけが、女性にとっての幸せじゃないよ
平安時代前期に成立した「竹取物語」は、こんなストーリーです。竹取の翁(CV:地井武男)は竹林で不思議な赤子を見つけます。子どもがいなかった翁と嫗(CV:宮本信子)は赤子を「姫」と呼んで育てることに。みるみるうちに大きくなった姫(CV:朝倉あき)は、捨丸(CV:高良健吾)ら村の子どもたちと一緒に遊び、天真爛漫な少女へと育っていきます。
姫の将来の幸せを考えた翁は竹林で手に入れたお金をもとに、京へと引っ越します。大きな屋敷で、美しい着物を羽織るようになった姫は「かぐや姫」と名付けられます。かぐや姫の美しさを聞きつけた5人の貴族が求婚しますが、かぐや姫は無理難題を言いつけて結婚を拒むのでした。お金持ちとの結婚だけが、女性にとっての幸せじゃないよと1000年以上も昔に語られていたことに驚きを覚えます。
最終的に御門(天皇)からの求愛も退けたかぐや姫は、実は月の住人であると翁と嫗に明かすのでした。オリジナルキャラクターとなる捨丸が登場する他は、原典にほぼ忠実に高畑監督は映画化しています。天皇をセクハラキャラとして描くあたり、高畑監督は遅れてきた全共闘世代だなぁと感じさせます。
アニメ界の巨人がたどり着いた悟りの境地
さて、かぐや姫の犯した「罪と罰」とは何だったのでしょうか? 「罪」は劇中で、かぐや姫自身が語っています。また、『金ロー』ですでに2度放映されている『かぐや姫の物語』を最後までご覧になった人なら、月からの使者たち=あの世からのお迎え、ということはご存知でしょう。
月の世界=天国なわけです。そんな極楽浄土で前世のかぐや姫は平穏に暮らしていたのですが、ある日を境に人間たちが暮らす穢れた地上に興味を持つようになったのです。清らかな月の世界では、穢れた下界での暮らしを望むことが「罪」に値するのでした。
かぐや姫はその「罪」のために、地上で生まれ変わることになったのです。幼い日々は捨丸たちと楽しく暮らしていたものの、社交界デビューしてからは自由を奪われ、噂話のネタにされ、望んでもいない男性たちから求婚されてしまいます。
はたから見ると、美人に生まれ、お金に苦労しないかぐや姫は幸せに思えますが、かぐや姫本人は苦痛の連続です。彼女にとっては、生きていること自体が「罰」でもあるわけです。
これって、かぐや姫だけに限ったことではないと思うんですよ。生きること自体が、面倒くさいことの連続です。本当に好きな相手と恋愛することもままなりません。多くの人が手痛い失恋を味わい、結婚しても高い確率で破局を迎えます。高畑監督は、人間がこの世で生きていくことそのものが「罪」であり、「罰」でもあると言いたいのではないかと思う次第です。
そんな「罪と罰」を背負って生きるかぐや姫ですが、それでも満開の桜のもとで楽しげに舞い、捨丸との再会には喜びの表情を見せています。しんどい人生の合間に現れる幸せな瞬間を噛み締めながら、人間は生きていく動物なのかもしれません。
人生とは悩み、苦しみ、ときどき笑うこと。
アニメ界の巨人・高畑勲監督が、人生のファイナルステージでたどり着いた悟りの境地でしょうか。
かぐや姫と捨丸の関係性は、高畑監督と宮﨑監督?
東大文学部仏文科を卒業した高畑監督は、アニメ演出家としてのキャリアをスタートさせた東映動画時代に「竹取物語」の企画を提出したものの、ボツ扱いされた状態でした。それから約半世紀、念願叶って完成させた『かぐや姫の物語』は、高畑監督の足取りを感じさせる集大成作となっています。
物語の後半、捨丸に久々に出会ったかぐや姫は、重い着物を脱ぎ捨て、野原で逆立ちしてみせます。共に東映動画を退職した宮﨑駿監督とのタッグ作『パンダコパンダ』(1972年)のミミちゃんを彷彿させます。かぐや姫と幼なじみの捨丸は、『アルプスの少女ハイジ』(フジテレビ系)のハイジとペーターを思わせるものがあります。
また、里山で暮らしていた時期のかぐや姫は捨丸と畑で実った瓜を盗みますが、このシーンは『火垂るの墓』の清太と節子の兄妹を思い出せます。
捨丸と空を飛ぶシーンの後、満月をバックにしたかぐや姫は水面へと落ちていきます。このシーンは、宮﨑駿監督のデビュー作『未来少年コナン』(NHK総合)の人気エピソードである第8話「逃亡」にそっくりです。コナンはラナを抱いて水面から月に向かって飛翔するのですが、かぐや姫と捨丸はその逆パターンとして描かれています。
アニメーションという夢を見る時間はそろそろ終わりに近づいていることを、高畑監督は自覚していたのかもしれません。また、かぐや姫と捨丸の関係性は、宮﨑監督と高畑監督が投影されているようにも感じます。口では辛らつな言葉を並べ続けた高畑監督ですが、宮﨑監督はやはり特別な存在だったはずです。
リアリズムを追求する演出家と天才的アニメーターのふたりが出会ったことで、日本のアニメ文化は花開くことになったわけですから。
いつか復活することを予言した「わらべ唄」
劇中で繰り返される「わらべ唄」は、高畑監督が作詞・作曲したオリジナルソングです。生きとし生けるものは、すべて輪廻転生することが歌われています。
今の映画界もアニメ界もヒットした作品だけが正しく、ヒットしていない作品は存在しないも同然という風潮になっています。宮﨑監督の『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』がメガヒットしたことで、その傾向が顕著なものとなった感があります。
スタジオジブリ設立後は、興収面では宮﨑駿作品に大きく差をつけられた高畑作品ですが、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)でデビューした高畑監督の歩みを改めて振り返ると「興収結果だけがすべてじゃないよな」と思えてくるんですよね。高畑作品にはお金では計れないものがあるわけです。とはいえ、『かぐや姫の物語』の25億円の赤字はすごいなぁと思いますけど。
いつの日か、また高畑監督のように採算度外視で映画をつくってしまう知の巨人が現れるのでしょうか。かぐや姫が歌う「せんぐり いのちが よみがえる せんぐり いのちが よみがえる」という歌詞が耳にこだまする『かぐや姫の物語』です。
文=映画ゾンビ・バブ
