王貞治・原辰徳・栗山英樹――3つの「世界一」から見る代表監督に必要な能力とは? 侍ジャパン3人の監督に学ぶ“世界一のつくり方”

代表監督論を語るとき、どうしても戦術や采配の話に寄りがちになる。
だが、世界一を獲った監督たちを並べてみると、そこにはもっと根源的で、もっと人間臭い共通項が浮かび上がってくる。
王貞治、原辰徳、栗山英樹……。この3人は、同じ「世界一」という結果に辿り着きながら、まったく異なるルートを通って頂点に立った。
3監督のチームビルディングと監督としてのあり方
初代WBC。あの時の日本代表は、まだ「寄せ集めのオールスター」に過ぎなかった。それを「侍ジャパン」というひとつの概念、ひとつの文化にまで昇華させたのは、間違いなく王貞治という男の圧倒的な求心力だ。
「世界の王」がベンチに座っている……。その事実だけで、バラバラだった選手たちの視線がひとつになった。
王の最大の仕事は、勝つこと以前に「日本代表」という概念を定義したことだ。球団も価値観も違う選手たちを、ただ集めただけではチームにはならない。
王はその寄せ集め集団に、“代表である意味”を与えた。イチローを中心に据えながらも、決してスターを自由放任にはしない。個を尊重しつつ、全体の規律を保つ。そのバランス感覚こそが、初代指揮官に求められた最大の能力だった。
原は短期決戦における「勝ち方」を知り尽くしていた監督だ。2009年の原は、まさに「短期決戦の鬼」だった。
シーズン中の戦い方とは一線を画す、冷徹なまでのゲームマネジメント。相手の隙を見逃さず、一気呵成に畳みかける。あの勝負に対する嗅覚と即応力こそが、連覇という難業を成し遂げた原動力だ。
「迷ったら動く」。セオリーよりも、その場の空気と流れを信じる。大胆な継投、思い切った代打起用……。その一手一手が、試合の趨勢を一瞬で変えてきた。
2009年大会でのイチロー起用も象徴的だ。理屈ではなく、「ここで彼だ」と腹をくくる胆力。これは戦術というより、勝負師の資質に近い。そして記憶に新しい2023年。栗山が示したのは、これまでの「統率」とは違う「共感」の形だ。
選手の懐に飛び込み、信じ抜き、個の力を極限まで引き出す。“心の指揮官”として、大谷翔平をはじめとする規格外のスターたちを、ひとつの生き物のように動かしてみせた。
大谷翔平という未曾有の存在を、縛らず、押さえつけず、ただ安心して野球ができる環境を用意する。その結果として生まれたのが、2023年のあのチームだ。
「大谷締め」に象徴されるように、栗山はチームの“空気”を言語化し、共有することに長けていた。技術ではなく、感情を束ねる指揮官だったと言っていい。
この3人を並べると、代表監督に必要な能力が立体的に見えてくる。まずは、異なる球団文化を持つ選手たちを「ひとつの価値観」に統合する力だ。
王が「文化」を作り、原が「勝ち方の型」を示し、栗山が「最高の空気」を醸成したように、短期間でチームを一つの生命体に染め上げる力が勝敗を分ける。
また、代表監督には「スター選手の心理」を扱う高度な技術も求められる。王はイチローと孤高の天才同士で共鳴し、原はスター選手を統率し、栗山は安心感を与えて選手を乗せた。
代表戦においては、「監督が選手にどう見られているか」が、そのままグラウンドでのパフォーマンス、ひいては勝率に直結するからだ。
さらに、膨大なデータを現場に落とし込む「翻訳力」や、個性を殺さず役割を明確にする「起用法」、そしてチームに爆発的な一体感をもたらすストーリーを創出する力も欠かせない。
イチローや大谷といった象徴的なスターをどう描き、どう動かすか……。その演出ひとつで、チームの勢いは劇的に変わる。
しかし、これらすべての能力の土台にあるのは、負けた場合に全責任を背負うという「責任の一元化」の覚悟だ。
短期決戦では、たった一つのミスが一生語り継がれる。その精神的な重圧に耐え、「責任はすべて俺が取る」と背中で語れる器の大きさこそが、監督としての最大の資質かもしれない。
不調者マネジメントにこそ、監督の「器」が表れる
代表監督の力量が最も露骨に表れる場面はどこか。戦術でも采配でもない。不調の選手を、どう扱うか。その一点に尽きる。
短期決戦の代表チームでは、「状態が上がるまで待つ」という選択肢は存在しない。それでも、切るのか、信じるのか、役割を変えるのか……。その判断ひとつで、チームの空気も結果も一変する。
この3人は、不調者への向き合い方においても、はっきりとした違いを見せていた。
王が向き合ったのは、福留孝介の不調だった。実力も実績も申し分ないが、国際大会では結果が出ない。批判は当然あった。それでも王は、福留を起用し続けた。
その結果、準決勝の韓国戦ではスタメンから外す決断を下したが、決して彼を見捨てなかった。ここぞという場面で代打に送り出し、あの伝説の先制2ランを呼び込んだのだ。
原が対峙したのは、イチローの不調だ。しかも相手は、チームの象徴であり、精神的支柱でもある存在だった。打順、役割、場面……。そのすべてを、勝つために最適化する。
イチローであろうと、流れが変わらなければ動かす。その姿勢が、逆にイチローの闘争心を刺激した。不調のスターを守るのではなく、勝負の当事者に引き戻す。それが原のやり方だった。信頼と緊張感を同時に与える、このバランス感覚は、短期決戦の監督にしか許されない高度な技術だ。
栗山が向き合ったのは、村上宗隆の深刻な不調だった。前年三冠王という看板を背負いながら、打てない。だが栗山は、最後まで村上を外さなかった。その理由は、戦術ではない。
日本中の期待が重圧へと変わる中、栗山は村上を信じた。
その結果、準決勝のメキシコ戦、最終回のチャンスでバントという選択肢がよぎる場面でも、「ムネ、任せたぞ」とすべてを託した。
あのサヨナラ打は、技術を超えた「無条件の安心感」が生んだ奇跡だった。選手の苦しみに寄り添い、共に泥をかぶる覚悟が、若き主砲を救い出したのだ。
この3人の対応を並べると、代表監督における不調者マネジメントの本質が見えてくる。王は、不調の選手を使い続けることでチームとしての勝ち筋の可能性を守った。原は、不調のスターを勝負の渦中に引き戻した。栗山は、不調の若き主軸を心理的に救った。
共通しているのは、「不調=即排除」というドライで短絡的な判断をしなかったことだ。代表チームにおいて、不調の選手をどう扱うかは、その選手個人の問題ではない。チーム全体へのメッセージになる。
だからこそ、監督の思想が最も露わになる。そしていずれも、世界一という結果に辿り着いている。不調の選手をどう見るか……。その視点の違いこそが、代表監督の「器」を測る、もっとも残酷で、もっとも正直な試金石なのだ。
(文=ゴジキ)

