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日本漫画家協会賞受賞作家・奈知未佐子さんインタビュー

女性向けマンガ誌の良心と言われた奈知未佐子さん、マンガ人生を語る

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(奈知未佐子さん提供)

老舗女性マンガ誌で温かく懐かしいショートストーリーを連載して40年。病気にも負けず精神力で描き続けます!

 小学館から発行されている月刊誌「月刊Flowers」。萩尾望都や吉田秋生、西炯子など、そうそうたる女性マンガ家たちが作品を発表するこの雑誌に、前身である「プチフラワー」から40年にわたって、毎号短編漫画『ショートメルヘン』を連載している奈知未佐子さん。世界の民話や昔話のような、どこか懐かしくほっとするその作風は、萩尾望都や竹宮惠子を育てた名編集者、山本順也をして、「Flowersの良心」と言わしめたとか。今回、奈知未佐子さんにインタビューを行い、幼少期から水木しげるのアシスタント時代、最近の闘病についてまで話を聞いた。

――奈知さんは1951年神奈川県生まれということですが、どのような幼少期を過ごされたのでしょうか?

奈知未佐子さん(以下、奈知) いまも住んでいる川崎市のマンションは、もともとうちの実家の敷地だったんです。昔は草葺の家で、マンションに建て替える代わりにいま住んでいる1階の部屋をもらいました。

 母は瞬間湯沸かし器みたいな人で、さっきハハハと笑っていたと思ったら、突然「未佐子ー!」と怒鳴り出す。「お母さん。はじめから怒鳴らないで、私に何か言って、私が言うこと聞かなかったら怒鳴ってくれる?」って言ったことあります。でも、私は母のお陰でマンガ家になれました。私に最初にマンガ本を与えてくれたのは母だったんです。

――それはどんな作品だったのでしょうか?

奈知 タイトルも作者も覚えていないのですが、デパートで売っていた書き下ろしのハードカバーのマンガでした。ロバが荷物を運ぶんだけど、すごくかわいそうなロバなんです。そのマンガを読んで泣いたことを覚えています。

 その次に読んだマンガは、雑誌の別冊付録でした。昔はよく雑誌に別冊付録として1冊マンガがついていたんです。なぜかその付録だけ家にありました。内容としてはお父さんが島流しにあって、娘がお米を鷹の足に、手紙を鳩の足につけて飛ばすんです。でも嵐にあって、海の上を鷹と鳩は懸命に飛んでいくんだけど死んでしまうんです。これもタイトルや作者は覚えていません。私はその話にすごく影響を受けていると思います。読んだのがまだ小学校に上がる前で、字が読めないのでおばあちゃんに読んでもらっていました。何度も「よんで、よんで」って言うので、「何度読めば気が済むのよ」って言われた記憶があります。

――子どもの頃から昔話のようなものが好きだったのでしょうか。

奈知 そうですね。両親が共働きで、朝早くから夜遅くまでいなかったので、祖父母と過ごしていました。祖父母は無口で、桃太郎とかの昔話をしてくれたことはないんです。だからそのぶん自分で読んだり想像するようになったのかもしれません。

マンガ界に入ったきっかけはナンパ?

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(奈知未佐子さん提供)

――マンガ家になりたいと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?

奈知 中学生のときですね。白土三平の『サスケ』とか、石ノ森章太郎の『さるとびエッちゃん』とかが好きで読んでたんですけど、ある時、これ、人が描いてるんだ、マンガ家っていう職業があるんだって気づいたんです。

 そして自分でも描きたいなと思ってマンガを描き始めたんですけど、最初はコマ割りができなかった。でも、なんとかコマ割りのやり方を覚えて、高校生の時、大きなケント紙にコマ割りして描いたマンガを講談社の「週刊少女フレンド」編集部に持ち込んだら、「あんたマンガの描き方知らないんだね。もっと勉強してから描きなよ」って言われて、マンガの描き方をプリントした紙をもらいましたね。

――その後、18歳の時に水木しげる先生のアシスタントになったとか。

奈知 高校生の時、ある同人誌グループに入っていて、その会合が、当時新宿にあったマンガ家、そしてマンガファンが集まることで有名な「コボタン」という喫茶店であったんです。ところが私は遅れて行ったものだから、どれが同人グループの人たちかわからなくて、もう場所を変えちゃったのかなと思っていったん店を出たんです。それで信号が青だったんだけど、渡らないで立ってたんです。いまでもあのとき信号渡っちゃえばよかったと思うんだけど(笑)、その時に男性3人のグループから、「僕たちは水木プロダクションの者ですけど、お茶飲みませんか」とナンパされたんです。声をかけてきたのは、のちに結婚することになる水木しげるのチーフアシスタントでした。気色悪い3人だなと思いましたね(笑)。

 私は彼らと一緒に店に戻りましたが、結局店の中で見つけた同人誌グループに合流し、彼らとは別れました。でも店を出ようとした時、例の3人が待っていて、「水木プロダクションでアシスタントになってみる気はないですか?」と言ってきたんです。

 水木しげるの?あの、水木しげるのアシスタントですって???

 私は翌月には、水木プロダクションの近所のアパートに引っ越していました。

――水木しげる先生のアシスタントの仕事はいかがだったのでしょうか?

奈知 水木しげるさんのマンガといえば、点描が有名ですけど、私は最初入った時に、水木先生が墓石の絵を持ってきて、「あんた、これに点々打って」と言われたんです。

 実際にやってみましたが、水木先生にはなんじゃあこりゃああ〜〜と思わず心の中で叫んだものだったようです。墓石の上に100粒程度の点が、繊細さのかけらも無く散らばっていたのですから。それ以後2度と点描を頼まれることはなかったですね。

 水木先生というのは奇妙な人で、いつも自分の世界に没入して、苦虫を噛み潰したような顔をしてて。消しゴムを放り投げて、それが落ちてくるまでの一瞬の間にネームを考えるって言ってました。「嘘でしょ」と思いましたけど。

――それでその声をかけてきたチーフアシスタントと結婚したとか。水木しげる夫妻をモデルにした2010年の朝ドラ「ゲゲゲの女房」で、水木しげる夫妻が「アシスタントの結婚式の仲人をする」といって正装しているシーンは、奈知さんたちの結婚式のことだそうですね。

奈知 はい。結婚して子どもができていったんマンガの仕事も辞めたんですけど、私、専業主婦が嫌で嫌で……。家事をして一日が終わるなんて絶対嫌だと思ったんです。離婚して竹宮惠子さんなどのアシスタントなどでマンガの仕事に戻って、1979年に「少女コミック」(小学館)でデビューしました。それからは子どもの面倒は主に私の母と元夫が見てくれていました。元旦那のことは決して嫌いではなかったんだけど、とにかく家事が嫌だった。マンガだけに集中していたかった。

――その後『小説JUNE』(サン出版)での4コマ漫画の連載を経て、やがてショートメルヘンの作風を確立し、「月刊Flowers」の連載『ショートメルヘン』は前身の「プチフラワー」からも含めるともう40年も続いています。1997年には連載をまとめた単行本『越後屋小判』(小学館)で日本漫画家協会賞優秀賞も受賞しました。毎回どのようにしてアイデアを思いつくのでしょうか。

奈知 自然に思いつくんです。タイトルのヒントだけはどこかからもらうことはあるけど、タイトルを思いついたら、あとは自然に話が出てきて。前に描いた話は忘れてしまっているんですけど、過去の話と似ることもないんです。なんでだろうと自分でも不思議なんですけど。

――まさに才能ですね。「ショートメルヘン」シリーズは何冊もの単行本になっていて、中国などでも翻訳されていて、海外のファンも多いとか。

奈知 ありがたいことです。

パーキンソン病と戦いながら執筆した10年

――しかしここ10年ほどは闘病をしながら描いていて、実は大変だったとか。そのあたりのお話もうかがえますでしょうか。

奈知 実は2009年頃から、だるくて疲れが取れないなどの症状があって、肩が痛くて手が上がらない、歩く時に足をひきずるなどの症状があったのですが、2012年に病院に行ったらパーキンソン病が判明したんです。それで薬を飲むようになったのですが、その副作用も結構つらくて。

 2024年の9月には自分の部屋で倒れたんです。3日間意識を失っていたんですけど、その間に夢を見ました。部屋から出ようと思っているのに出口がわからなくて、「どこから入ってきたっけ?」と思っていると、お月様みたいな顔の人が私を見ているんです。

「ここかな?」ってさまよっている私に付かず離れずの距離をとりながら、その人はずっとついていてくれました。

 そして歩きにくい道では、手をとって一緒に歩いてくれました。その人が歩いたところが道になり私はとても楽に歩けたのです。そして、出口にたどり着くとタクシーが待っていますよと誰かに言われ、建物の外に出てタクシーに乗りました。「家につきましたよ」と言われタクシーを降りたちょうどその時、「お姉ちゃん、何してるの?」と部屋を訪ねてきた妹に声をかけられたのです。そして私は救急車で病院に運ばれました。

 もしかしたらあれは夢じゃなくて臨死体験だったのかもしれません。そういった出来事があり、はじめて連載を落としてしまいました。

――それは心配ですね。でも、その夢も作品になりそうです。

奈知 そんなわけでいろいろ大変なのですが、いま精神統一の方法に磨きをかけているんです。精神力で乗り切ろうと思っています。

――また新しい作品が読みたいです。ぜひこれからも頑張ってください!

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(奈知未佐子さん提供)

奈知未佐子(なち・みさこ)

1951年神奈川県生まれ。1979年「少女コミック」でデビュー。1997年「越後屋小判」で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。単行本は『一日の最後に読みたい本。〜奈知未佐子自選短編集〜』『奈知未佐子短編集〜思い出小箱の15粒〜』(いずれも小学館)など多数。

奈知未佐子さん作品リスト

©奈知未佐子/小学館

里中高志

フリージャーナリスト。1977年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、週刊誌記者などをしながら、大正大学大学院宗教学科修了。精神障害者のための地域活動支援センターで働き、精神保健福祉士の資格を取得。メンタルヘルス、宗教などのほか、さまざまな分野で取材、執筆活動を行う。著書に『精神障害者枠で働く』(中央法規出版)『栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人』(早川書房)、『触法精神障害者 医療観察法をめぐって』(中央公論新社) がある。

X:@satonak1

最終更新:2025/02/13 12:00