『おむすび』第101回 まるで視聴者の理解と想像を拒否しているような「矛盾」と「説明不足」

花ちゃん、好き嫌いがないそうですね。とってもえらいな。
なんでも結さん(橋本環奈)が小さいころから、いろいろ工夫して食べさせていたんだそうですね。花ちゃんが生まれたころといえば、結さんは管理栄養士を目指して勉強しながら星河電器の社食で栄養士として働いていました。まさしく献立作りこそが本業であり、さらに専門的な知識を身に着けようと努力していた。
その結さんがどんな工夫をして、子どもの偏食を克服するに至ったのか。たった1エピソードでいいと思うんですよ。ニンジンとシイタケを細かく刻んだとか、ピーマンは火を通さずキンキンに冷やしてみたとか、そんなのでいい。それこそ、子どもの偏食を克服した栄養士さんにひとつふたつ取材して聞いてみればいい話です。栄養士のドラマなんだから、そういう栄養士ならではの工夫が見られたほうがおもしろいと思うし、「工夫した」とひとことで済ませることが不自然に映るんです。
NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』といえば「綿密な取材」でおなじみですが、どうにも物語に必要な取材が綿密に行われている形跡がないんですよね。むしろ、取材ありきでストーリーを組み上げているように見える。被災者・ナベべ(緒形直人)の初期における極端なキャラクターとか、気仙沼の缶詰嫌いのおじいちゃんとか、そりゃ被災者は取材にそう応えたんでしょうけど、そういう取材から得た素材から物語に必要なエッセンスを抽出するのではなく、素材を丸めてポンでそのままお披露目しちゃってる感じ。
本来なら作り手の「届けたい物語」や「伝えたい思い」が先にあって、必要な取材が発生して、綿密に取材するという手順なわけですが、『おむすび』では先にお仕着せテーマとテーマに即した取材があって、その素材を「脚本家」という装置に次々に放り込んでいる。その装置が100万回のエラーを吐きながら必死のパッチで出力したスクリプトを、味気ないセットの中で俳優さんたちが演じている。そういうふうに見える。
このシーン、結局、結さんの工夫は具体的に語られることなく、ばあば(宮崎美子)の「えらかねえ、結」の一言で片づけられます。
「えらかねえ、結」「結のおかげね」「米田さん、お手柄よ」
こうした主人公への賛辞は全部きっと、脚本家が吐き出したエラーコードなんだよな。
第101回、振り返りましょう。
パパとじいじの確執なわけですが
むしろ松平健と北村有起哉がいきなり現れて、「不仲の親子」というテーマの即興芝居を始めたと思ったほうが、まだ見られるものなんだと思うんです。その中で「大学の学費を父が使い込んだ」という設定が入って、「それがこういう理由だった」とだけ明かされれば、感動したかもしれない。
感動を期待するには、私たちはこの親子について知りすぎているんです。何も知らないということを知りすぎている。断片的であべこべな情報によって、あらゆる想像力を阻害されている。だから、この2人が人間に見えない。
息子が18歳のときに決裂した親子が、そのままずっと会っていなかったのならまだわかる。息子がガンになり、それを機に数十年来の再会を果たし、それでもやっぱりケンカをしてしまうのなら、まだわかるんだ。
実際にはガンになったことをじいじとばあばに伝えたのは愛子(麻生久美子)らしいし、それを聞いた祖父母がどうリアクションしたのかもわからない。退院からこの日までの1か月間、年末年始も挟んでいるけれど、この家族にどのような交流があったのかもわからない。
「2人は、お父さんが心配で来てくれたと?」
どういう親子関係だと、こんな質問が出てくるんでしょう。なんでパパは病床で「糸島に行きたい」と考えたのでしょう。実に綿密に、私たちが「パパとじいじの親子像」を想像することを拒んでくるような、あえて情報を錯綜させているかのような、松平健と北村有起哉の親子関係はそういう描かれ方をしているんです。ほかの家族たちもそうです。じいじは花ちゃんと初対面ではないようだけど、サッカーやってたことは知らなかった。どういうことなのか。
結が6歳から18歳までの12年間、パパは糸島でじいじと同居しています。「俺は床屋や」という思いを胸に秘めながら、実家の農業を手伝っていた。
ここもわからないことだらけなんだよな。別に床屋やればいいじゃん、福岡で。愛子さんだって顔剃りやってたシーンがあったから理容師免許を持ってるんでしょ。免許持ちの2人が12年も農業やってる意味がわからない。神戸に空きテナントが出た瞬間に契約できるくらいの金もあったわけでしょう。
農家は人手不足だというなら専業農家のくせにじいじが若いころあちこちほっつき歩いていたこととも、パパが神戸に戻っても大丈夫であることに説明がつかない。
かろうじて「学費の使い込み」に何かパパの知らない美談めいた秘密がありそうだ。読み取れるのはそれくらいだし、もう大して興味もないけれどとりあえずそれが明かされるのを待つくらいしかすることがない。なんかパパには妹がいたな、あの2人が伏線かどうかもわからない。
伏線というのは、物語の中で登場したエピソードが後に別の意味を持って作用してくることであって、『おむすび』でやっているのは「途中で話をやめる」「後でその話を続ける」という単純な引き延ばしに過ぎないのです。
一方で「家族は」とか言ってくる
今日も元気に入院患者にタメ口対応の管理栄養士・結さん。今回の担当は産婦人科のようです。もうNST対象なのか普通の担当なのかすら説明しなくなりました。もともと消化器内科と外科が担当だったはずだからたぶんNSTなんだけど、この妊婦さんがなんでNST対象なのかもわからないし、「旦那さんが来れん分、私ができるだけ顔出すし」とか言ってるから週イチのNST回診以外にもかかわってくるつもりみたいだし、ずっと院内での結さんの立ち位置がフワフワしてるのも気持ちが悪い。
そして何より、産科のエピソードをやる上で絶対に生かさなきゃいけないはずの設定である「出産経験者」に、結さんが見えないんだよな。今回の患者は悪阻もひどくて、それも結さんと同じということなのですが、このドラマで結さんは悪阻については一晩しか苦しんでないし、出産の痛みや悩みもまったく描かれていない。乳幼児期も参考書をめくりながら花ちゃんを持ったり置いたりしてただけだ。だから結さんが何か妊娠出産についての経験談を語りだしても「は、誰が何を言うてんの?」としか思えない。ドラマとして、すごく弱い。
そのくせ「そう簡単には切れんと思う、親子とか、家族の縁とか」みたいなセリフを挟み込んでくる。誰が「簡単に」切ったと言った? 多様性に目配りする一方で、こんな毒の回り切った保守の権化みたいなことを平気で言い出す。すごくダサい。
あと「患者本人の同意がなければ家族にも病状を明かせない」という職業倫理を披露した翌週に「患者本人の同意なく家族に病状を伝える」医師を登場させるのは、どういう了見なの。
総じて、こうやって時を超えた人物が現れると『おむすび』というドラマのシナリオが校正されていない、大人のフィルターを通っていない感じがあからさまに現れてしまって、うーん、げんなりな感じです。
今週もがんばるぞ!
(文=どらまっ子AKIちゃん)