『おむすび』第109回 それを「人助け」と呼ぶのか……ドラマの根本にある職業倫理と人生観の話

冒頭、「この町を出ることにした」と言って仕立て屋がやってきます。ヨネダの営業中、例によって一般客はおらず、いつものメンバーがそろっています。
次のカットでは「OPEN」だったサインプレートが「CLOSE」にひっくり返され、一同は仕立て屋の話に耳を傾けている。
「仕立て屋がとんでもないことを言いだした、営業どころじゃない」
そういう演出です。
これを美談として、「みんなが仕立て屋を思いやっている」という意図で披露してくるセンスというか、「人を思う」ということの意味そのものが絶望的に合わないんだよな。これはもう、ホントに作ってる人と見ている人の人生観が合うか、合わないかの問題だと思う。
私は、これは営業妨害だと思うんです。ヨネダに機会損失を与えている仕立て屋は、商売人失格だと思う。
自分の話を聞くために、ヨネダが店を臨時休業にしようとする。
「ええねん、やめえや。俺のことより、お客さん来たらどないすんねん」
仕立て屋はそう言ってヨネダを制止するべきだと思う。
「それどころやないやろ、町を出るってどういうことやねん」
それでもヨネダは店を閉めようとするかもしれない。
「マサちゃん、俺らは商売人や。同じ商店街の仲間として言わしてもらうわ、いま店を閉めるんは違うやろ」
仕立て屋は営業中に重い話を持ってきてしまったことに後悔を浮かべている。
「それもそうやな、後で聞くわ」
そういう人たちであれよ。
例えば、親が死んだ、これは臨時休業にしていいケースでしょう。ネコが死んだ、これもいいと思う。ハムスターが急病で動物病院に連れて行きたい、これだっていい。なんだったら「なんかダルい」「気が乗らない」という理由で午後から店を閉めるのだって、それは店主の勝手だ。
でも、商店街仲間の仕立て屋の話を聞くためにヨネダが店を閉めるのは、これはダメだ。商店街が共同体であるからこそ、これはダメなんだ。美しくない。
ヨネダで仲間がたむろしているのも、最低限「ヨネダの営業を邪魔していない」という建て前の上に成り立っていたシーンだと思うんですよ。「CLOSE」にしたヨネダも、それを止めない仕立て屋も、何も言わない面々も、この人たちを優しいとは思えないし、これを許容するスタンスの商店街をいい商店街だとは思えない。ショッピングセンターに駆逐されてしまえ、と思う。
ずっとNHK朝の連続テレビ小説『おむすび』で描かれる「人助け」が「人助け」に見えず、「それって単なる自己満足じゃねーの」と感じてきた、その作り手と私自身の職業倫理や人生観の違いが典型として現れたエピソードだったと思いました。
「米田家の呪い」になぞらえていえば、このときヨネダのやったことは「どうしてウチは、仕立て屋さんの話を聞くために店を閉めてしまうんやろう……」ということなんでしょう。
どうしてじゃねえよ。商売ナメてっからだよ。お客様をお迎えするっていう仕事をナメてんの。
そこで新喜劇やられて笑えるわけないよね。
第109回、張り切って振り返りましょう!
仕立て屋って儲かるんだな
その仕立て屋ですが、神戸を離れてどうするかといえば、夫婦で温泉プール付きの老人ホームに入るという。2人合わせて入居だけで下手すりゃ億近くいくんじゃないの。すげえ金持ち向けの高級ホームだし、当然、そのホームには専門の管理栄養士がいて食事面だって充実しているはずだ。プールと温泉があって食事だけ貧相ってのはありえないからな。
だから、仕立て屋の話とコンビニの高齢者向け弁当には関係がないんです。なっちゃんがコンビニ弁当を作ったからって、仕立て屋が商店街に残る理由にはならない。仮に今回作ることになるサワラの弁当企画が通ったとして、セレブである仕立て屋は毎日3食それを食うのか? 温泉プール付きホームに入るより、弱った体で同じ弁当をあくせく買いに行って食い続けるのが彼らの幸せなのか? なっちゃんと結さん(橋本環奈)に再奮起させたいのはいいけど、エピソード同士の因果が弱いんですよ。この因果の弱さもずっと『おむすび』が抱え続けている問題です。これは人生観とかじゃなく、シンプルに作劇における技量の話。
で、試食会です。
いくらリリー・フランキーが渋みがかった声で「通常業務の合間に」って言ったところで、「全員ヒマかよ」というツッコミからは逃れられないし、今回の試作品を結さんが作ったのか、また柿沼に作らせたのかを明言しないのも卑怯だし、材料費とか大銀皿とかメニュープレートとかいろいろリアリティに欠けるし、もう茶番も茶番なわけですが、この弁当作りパートのいちばんの問題って、乗り越えるべき課題がブレまくってることなんですよね。
おおまかに、フレイルについてとコストについて、この2つが結さんたちが乗り越えるべき壁になっているわけですが、この病院には老齢患者だって当然、いますよね。フレイルに対応するメニュー作りなんてものは、むしろ結さんにとっては通常業務であるはずなんです。
それなのに、ドクター森下(馬場徹)と結さんの間でこれまでフレイル対応メニューについて話し合われた形跡がまったくない。あのアンケートで初めて、森下がフレイルについて結さんに言及したことになってる。管理栄養士になって4年か、もう5年か、消化器内科の担当医と、その担当医の指示を受けて病院食メニューを考案する管理栄養士が、これまでどんな仕事をしてきたのか。このドクター森下と管理栄養士・結の関係性については、ドクター森下が画面に登場した瞬間からずっと矛盾をはらんだまま話が進んでいます。フレイルにしろ噛む力にしろ、このコンビニ編で2人が初めて話題にするようなことじゃない。
そしてコストについて。まず調達コストについては「スイスチャードと難波ネギをやめる」ことでクリアとしています。というか、この「クリア」を描くために、先に「スイスチャードと難波ネギを使う」というバカなことをやらせている。ここまでの結さんの経験を活かして成長を描き、さらにその先に壁を出現させるということができないから、マイナスに振ってゼロに戻すことで「成長」を錯覚させているわけです。実に姑息。
そして作業工程のコストについては、具体的な策を描かず土屋に「問題はクリアしている」とセリフで言わせるだけでクリアとしている。実に怠惰。
あと、話戻りますけど、緑子が元気がなかった理由がフレイルやら関係なく「仕立て屋が老人ホームに行っちゃう寂しさ」だった件ね、なっちゃん実家通いだと思うけど、緑子と普段どんな話してるの? ここも断絶親子なの?
これ、なっちゃんが高齢者向け弁当の企画を思いつくために緑子の元気を削いでいたわけですけど、つくづく『おむすび』というドラマにとって登場人物の「日常」というのが邪魔でしかないんだなと思いましたよね。なっちゃんと緑子の日常会話を描いてしまうと、なっちゃんが高齢者向け弁当の企画を思いつくことができない。というか、本当ならそうした日常の中からなっちゃんの企画に結び付くような会話を作るというのがシナリオの仕事なわけだけど、そういう会話を作ることからずっと逃げてる。
冒頭の人生観の話もそうだけど、残り3週にして次々と自分自身が『おむすび』というドラマを愛せない理由が明確に言語化できるようになってきて、これはこれでクライマックス感あるな、と思いますね。最終回には「ほらみろ、やっぱり大っ嫌い!」とか思うのかな。なんかやだなそれ。
(文=どらまっ子AKIちゃん)