『おむすび』第112回 無力感を受け入れられない作劇が未曾有の危機から緊張感を削いでいく

当然、フィクションだしオリジナルの人物を描くドラマだから、コロナ禍についても「あえて」描くという選択をしているわけですよね。東日本大震災は描くけど、糸島で結さん(橋本環奈)たちが暮らしていたときに起きていたはずの福岡県西方沖地震は描かない。スズリンは当時、熊本でネイルサロンをやってたはずだけど、熊本地震も描かない。
でも、コロナ禍はやる、と。
たぶんそれは、朝ドラを作る人としての義務感とか責任感とか、そういうものが作用しての選択だと思うし、たくさん取材をした形跡も見て取れるものではあったと思う。
で、ここからは手段と目的の話。
米田結という主人公の人生を描くためにコロナ禍が必要だったのか、あるいは朝ドラが現代を通過するからには避けて通れないから描いているのか、ということです。
どうしても、NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』は「コロナ禍を描いた」という実績がほしくてこれをやっているように見えてしまうんです。結さんという主人公を通して何かメッセージを伝えようというエモーショナルな創作者の衝動、エゴのようなものがまるで感じられない。
そんな第112回でした。振り返りましょう。
管理栄養士としての受け入れ準備
病院の一部がレッドゾーンとして隔離される中、「管理栄養士である結たちもコロナに感染した患者の受け入れ準備を始めていました」というナレーションが流れます。
結さんはNSTがいつも使っている会議室のイスにラミネートされた「×」を貼っている。確かに「密を避けて、イスはひとつ空けて座りましょう」という動きは記憶にあるけれど、この会議室は不特定多数の人が使うわけじゃないよね。これまで、この部屋に出入りしていたのは医師とコメディカル、たまに患者の家族がいたような気がするけど、いずれにしろ医療従事者不在の状態で誰かが使うことのない部屋です。
そんな部屋なのに「×」を貼らないと詰めて座っちゃうの? そんな意識の低い人たちなの? って思っちゃうんだよ。こういう演出ひとつで、切迫感がない、ただ情報を映像化しているだけだという印象を与えてしまうんです。
「結たちの提案で、新淀川記念病院ではコロナの患者の食事にはディスポと呼ばれる使い捨て食器が使われることになりました」
実際に、ディスポと呼ばれる使い捨ての容器が使われたことがあったのでしょう。でもディスポを使うかどうかは病院側の感染症対策の領分であって、管理栄養士が提案するようなことじゃないよね。石田っちが白と黒と木目のサンプルを段ボールから取り出して、「どの色がいいですか?」と言ってる。わざわざ3種類のディスポを取り寄せる意味はなんなのか。カタログから「白」を選べば済む話です。
その後、コロナ患者の受け入れが始まってからの管理栄養士たちの動きについて、マリ科長から指示が出ます。
「うちらがレッドゾーンに行くことはないと思う」
「一般病棟の患者さんへの接触も、できるだけ減らしてほしいって言われている」
「ないと思う」とか「できるだけ減らしてほしい」とか、事態がシリアスな割に行動への制約がゆるくて栄養科の判断に任されているのも、この病院の指示系統はどうなってんのかな、と思っちゃうんだよな。「レッドゾーンへの管理栄養士の立ち入りは禁止」「一般病棟へのミールラウンドは週1回」と決定事項として下りてくるもんじゃないのかね。感染症の専門家でもない栄養士が勝手に病院内をウロウロする猶予が残されているのも気持ちが悪い。
要するに、管理栄養士としてできることはすごく限られている。その限られている中で「結さんも仕事してます」というアピールをしなければならないから、「レッドゾーンを区切る」とか「防護服を着る」とか、医師や看護師といった現場の最前線で行われている厳密な「受け入れ対策」と、「会議室のイスに『×』を貼る」「ディスポの色を選ぶ」という管理栄養士たちの「受け入れ対策」が同列で語られてしまって、結果、結さんが何かしゃべるたびに画面から緊張感が削がれていくということが起こっている。
そういうシーンが並んでいるのを見て、手段と目的について考えてしまうわけです。
あくまで結さんという主人公の人生を描くのが目的で、その手段がコロナ禍であったとするなら、この段階でできることが制限されすぎている。制限されすぎていることに作劇が耐えられないから「ディスポは結さんたちの提案」などという無理筋を強引に差し込んでくる。
耐えろよ、って思うんだよな。シナリオが、主人公が何もできないという状況を受け入れて、耐えろよと思うの。苦しい中で、ただ粛々と自分ができることをやるしかない。みんなが無力感に苛まれていた。結さんって、そっち側の立場のはずなんだよ。病院に勤めてはいるけれど、最前線で何かできるわけじゃない。アイスか、ゼリーか、プリンか、フリカケか、それくらいしか語れることがない。
だから管理栄養士のドラマでコロナ禍を描かないほうがよかった、という話ではないです。
あんま関係ないけど
今回の『おむすび』を見ていて、『ひゃくはち』という高校野球の映画を思い出したんです。
この映画は高校野球を描く物語としてすごく異例で、主人公が補欠なんですよね。高校野球の映画なのに、エースがほとんど出てこない。主人公が試合に出ない。
映画は徹底して補欠である主人公の背後に回り込み、主人公の見た景色だけを描いていきます。主人公は自身の無力感を受け入れ、いまの自分にできること、いまの自分にしかできないことを見出していく。そして、実に爽快なラストにたどり着いています。
『おむすび』に足りないのは、そうした主人公の無力感を受け入れる覚悟だと思ったんだよな。イスに「×」、ディスポ、アイス、ゼリー、プリン、フリカケ、たくさんの人が苦しんで運び込まれてくるのに、自分はそんなことしかできない。それでも、自分に何ができる、何ができる、何ができる、そういう自身の無力感と絶望に対する苦悩を主人公の背後から、主人公に寄り添って一緒に考えていくという作劇があったなら、管理栄養士のドラマでコロナ禍を描く意味だってあったと思う。
でも実際に描かれているのは、『ひゃくはち』でいえば「試合」なんです。あんま知らない人たちが奮闘している県大会決勝の再現映像であって、結さんはマウンドに立っていない。ベンチにいる。そのくせたまにいっちょかみしてきて「私もチームの役に立っています」という顔をしている。このままじゃ、結さんはフリカケとプリンで満足してる人になっちゃうよ。
見たいのは「結さんは結さんで少し役に立っている」ではないんです。「結さんが、結さんにしかできないことをやろうとしている」なんです。成果ではなく、意志なんです。未曾有の事態に巻き込まれて、この主人公が何を考え、どんな不安を覚え、何とどう戦ったのか、それを描くことこそがドラマだし、コロナ禍における管理栄養士という仕事の本質を描くことにもつながると思うのです。西方沖地震を「あえて」スルーしたドラマが、コロナ禍を「あえて」描く意義だと思うのです。
あと何回、コロナ禍に費やすのか知りませんが、どうか管理栄養士としての結さんなりの戦いが描かれますように。
(文=どらまっ子AKIちゃん)