『おむすび』第115回 コロナ禍、あっさり終了 主人公・米田結に自己を投影するか否かの話

令和2年6月、大阪のコロナ感染者がゼロになりました。やったぜ結ちゃん、今日も金曜でハッピーエンド。かわいい花ちゃんとの久しぶりの再会ハグも、左手は添えるだけ……。
というわけで、NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』第23週「離れとってもつながっとうけん」が終わりました。
「どんなときでも自分らしさを大切にする“ギャル魂”を胸に、主人公・米田結が、激動の平成・令和を思いきり楽しく、時に悩みながらもパワフルに突き進みます!」
第115回、振り返りましょう。
どこまで他人事やねん
「悔しいなぁ」という気持ちはないんか、石田っち! と思ったんですよ。
冒頭、結さん(橋本環奈)から「娘が学校で『コロナまみれ』と言われた」という話を聞いたであろう石田っち、それに対するリアクションが以下のセリフです。
「ひどいこと言うなぁ、医療従事者も、みんながんばってんのに!」
なんでこの人、他人事としてしゃべってるんですかね。あなたも医療従事者でしょう。「コロナまみれ」はあなたにも向けられた言葉ですよ。その言葉を聞いて、湧き上がってきたセリフが「医療従事者も」じゃないでしょう。「俺たちだって」でしょう。
セリフを書くという作業は、その人物の心の奥底に潜り込んで気持ちを拾い上げ、それを言語化することだと思うんですよ。石田っち、おまえにも家族がいるだろう。おまえの歌を聞かせてみろよ。
「医療従事者も、みんながんばってんのに!」なんてセリフは、医療従事者じゃない私たちだって言えるんです。当時でも、そう言えたと思うよ。おそらくノの字もそう思ったし、言いたかったんだろうね。
それを当事者に、そのまま言わせてしまう。石田っちという人間のフィルターを通さない。石田っちの目線から見た世界を想像しようとしない。こういうことをやるから、脇役が単なる小道具になってしまうんです。脇役といっても、この人は主人公の職場における「バディ」という立場ですよ。栄養科で唯一、イエローゾーンに足を踏み入れるという修羅場を結さんと共にする人物です。そういう人物でさえ、この扱い。
ここまで、開始から7秒。毎回、なんらか「うわっ」と思うことがあるんだけど、これは最短記録かもしれません。
そんでコンビニのスカウト話が蒸し返されて、マリ科長が転職を勧める流れに。これ自体は「お払い箱にしようとしてんじゃねーの」とまでは思わないけど、甘やかしてんな、とは思うんだよな。家族が誹謗中傷に晒された医療従事者が、病院を辞めたほうがいいのではないかと思い悩む。実際、結さんも昨日、泣くほど悩んでたわけだけど、そこに「コンビニに転職」という選択肢があることで、逆に覚悟のない人に見えてしまう。
「医療従事者の家族に対する誹謗中傷」というシチュエーションが与えるストレスに対して、主人公である結さんは「いつでも転職できる」という、もっとも恵まれた環境にいる。シンプルに、これだとつまんないのよ。せっかくめちゃくちゃな段取りで作り上げた「コンビニへの転職の可能性」という要素が、「おまえはいいよな」になっちゃうんだよな。作り手の意図としては「それでも病院に残る選択をする結さんステキ」なんだろうけれども、ねえ。
これは肌感覚の部分だと思うんだけど、柿沼はこの話、どんな気持ちで聞いてんだろうと思っちゃうんですよ。雑なメモだけヒョイって渡されてカレーやら味噌汁やら作らされて、コンビニ弁当の試食会での大量の試作品もたぶん柿沼の手を借りていただろうし、仮に結さんひとりであの量を作ったとしても厨房で通常業務してる柿沼にとっては邪魔だっただろうし、庶民感覚としては「考えてみます」とか言ってる結さんに「いい気なもんだぜ」って思っちゃわないかな。これは受け取り方がひねくれすぎかもしれないけど、ねえ。
準備が唐突なんです
勤務を終え、いつになく地味な、まるで留置所で貸し出してるやつみたいなトレーナーで帰宅した結さん。昨日はド派手なカーディガン着てたはずだけど、どうしたんだろうと思っていたら、アユ(仲里依紗)がテレビ電話で「何そのカッコ、なんか暗くない?」と言い出します。
うん、確かに今日はなんか暗いね。でも昨日はオレンジと黄色と青が入った明るい服着てたんだよ。
アユに「服が暗い」と言わせるために、見たこともない留置所トレーナーを着せる。セリフを言わせるための準備が唐突なんです。その後の展開のために、今まで描いてこなかった前提を唐突に発生させるのも、また『おむすび』の手癖といえる部分でしょう。その手癖の小さいやつがこの留置所トレーナーで、大きいやつが第112回で急にママにデレた花ちゃんね。感動の再会ハグをやらせるために、唐突にデレてきたでしょう。あれ怖かったんだよな、タミフルか何かの副作用かと思ったよ。
アユのお店の服はバカ売れだそうで、その理由は「ステイホームだからって服ばんばん売れてる」とのこと。ということは、ステイホームだからギャル服をばんばん買ってる人が日本中にたくさんいるということです。
当時の消費者の気分として『おむすび』は「ステイホームでギャル服大量購入でアゲ~♪」だったと言ってるわけですよね。そうした空気感だったと説明した上で、結さんには留置所服を着せて「そんな気分じゃない」と言わせている。どっちを言いたいのか、ここに矛盾が発生しているし、これが矛盾ではないというなら「医療従事者は気分サゲだったけど、それ以外はアゲだった」という特権意識の発露ということになってしまう。本来、「みんなつらかったよね」と言いたいはずなのに、「結さんだけがつらかった」と言ってしまっている。
『おむすび』はコロナ禍をちゃんと描けないだろうな、と予想していたのは、まさにこういうところなんです。ずっと結さんを「与える側の特別な人間」として描いてきたこのドラマが、コロナという大状況の中でこの人を庶民や生活者の中に落とし込むことはできないんじゃないかと思ってたの。コロナ禍を描く上で視聴者が主人公である結さんに共感することが成功だとするなら、やっぱり明らかに失敗したと思います。この人は私たちの中の誰でもなかった。この人と「あのときはつらかったよね」という話をしたいとは思えなかった。そういうことです。
「ギャルやけん」と言ってみろ
冒頭の宣伝文句もそうだし、ギャル化した翔也を「ギャルなめんな!」って怒鳴ったこともあったよね。
このコロナ禍を描いた1週間、結さんがギャルだったことは一瞬たりともありませんでした。それどころか、留置所服に袖を通すというギャルとしてあるまじき行動までしています。
大前提として、ギャルだったらどうするのかを見せるのがコンセプトだったはずなんだよな。東日本大震災、コロナ禍、そういう大きな状況が世の中に暗い影を落としたとき、主人公のギャル魂が周囲にどんな影響を与えるのか。そういうことを語るドラマだったはずなんです。
震災とコロナが終わって、それはできなかった、という結論が出たことになります。特にコロナ禍では状況描写ばかりに偏ってしまい、結さんの言動は一般論の域を出ることがなかった。ギャルについてはアユが担ったからいいだろ、という話でもないんです。シンプルに、主人公に一貫性がない。そのことが「おもしろくない」につながっているんです。今さら言うけど、おもしろいドラマが見たかったんだよ、それだけだよ。
ギャルつながりというわけじゃないけど
「ギャルゲー」というジャンルがありますね。プレイヤーが主人公に成り代わって、かわいい女の子たちと出会ってどうしたこうしたというゲームです。
ギャルゲーの主人公は、プレイヤーを没頭させるために、とことん無個性に作られています。無個性で、主張がなく、常に受け身。プレイヤーが与えられた選択肢を選ぶことで、周囲から称賛を受けたり、女の子に好きになられたりします。
なんか結さんってギャルゲーの主人公感あるんだよな。というか『おむすび』そのものが結さんを主人公にしたギャルゲーみたいな感じなの。
「書道部に入る」「入らない」
「パラパラの練習に行く」「行かない」
「星河に入社する」「しない」
「コンビニに転職する」「しない」
そういう選択肢が順を追って登場して、結さんがどちらかを選んでいく。トラブルは周囲が勝手に解決していくか、「手紙を書きました」「タブレットを用意しました」という結果だけが表示されて、思考や苦悩の具体的なプロセスがない。右肩関節唇損傷みたいなイベントも役割を終えれば、次の選択肢の邪魔になりそうなのでポイポイ捨てちゃう。加えて実社会との乖離というか、その描写のデフォルメ感もゲームっぽいな、考えてみると。
こういうのって、結さんという人に自己を投影して見ていると満足度高いと思うんだけど、私のように他者として、結さんという人物から影響を受けたいと思って見ている人には、めちゃくちゃ物足りないんだよな。
私はおもしろいドラマが見たくて、あわよくばその主人公から生きる指針になるようなメッセージを受け取りたい、人生や世界の美しさを改めて確認したい。視聴者というのは、かくも欲張りなものですな。それにしてもあと2週、何やるんかね。
(文=どらまっ子AKIちゃん)