『おむすび』第120回 「死にたい」思いの耐えられない軽さ 不幸の記号化で展開する作劇倫理

NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』の昨日の家族会議のシーン、このレビューでは主に2つのことを書きました。
ひとつは愛子(麻生久美子)の長セリフは内容がまったくないけど、特に「自由」というワードが唐突に差し込まれて気持ちが悪かった。
もうひとつは、翔也(佐野勇斗)が完全に無視されてたけど、この人は家族ではないということなのかな? ということでした。
いつもの統括さんのコメント記事がYahoo!ニュースに出ていて、図らずも答え合わせができたので紹介しておきますね。20日8時15分配信『「糸島に帰りたい」圧巻、愛子の宣言シーン 麻生久美子オールアップの瞬間、橋本環奈は…【おむすび】』という記事です。
まず「自由」について。これは制作統括の真鍋斎氏の意向で挿入されたんだそうです。以下、記事からの引用。
「これは僕が是非とも入れたかった台詞で、根本さんにお願いしました。自由が暴走し、肥大化している現代社会において『本当の自由』というのは責任が伴い、返り討ちに会う覚悟すら必要なのだということを、ぜひとも言いたいと思いました」
愛子、急にドラマと関係ないこと言いだしたなと思ったら、統括さんが愛子に急にドラマと関係ないことを言わせた、という話でした。「ぜひとも言いたいと思いました」って、それはあなたのブログとかで言ったらいいんじゃないでしょうかね。
朝ドラの制作を統括するという立場を得た人が、自分の言いたいことを劇中に差し込める「自由」を手に入れた。だから、物語に関係なく脚本家に「お願い」して挿入した。
自由が暴走して肥大化しているよ。この強引なセリフの捻じ曲げが局Pと雇われライターという権力勾配によるものなのか、あるいは単なる内輪のナァナァな慣れ合いなのかは知りませんけど、いちおう電波というのは公共物であって、NHKは公共放送であるわけですから、そこで放送される朝ドラを私物化するのは遠慮していただきたいところです。タランティーノや向田邦子が相手でも同じことが言えるのか? という話。
で、翔也について。こちらは同じ統括の宇佐川隆史氏のコメント。
「麻生さんのお芝居が素晴らしいのはもちろんのこと、米田家の家族を演じた北村有起哉さん、仲里依紗さん、橋本環奈さん、4人が紡いだ信頼感と安心感があるからこそ、あのシーンができたのだと思います。米田家の4人が行き着いたところがここなんだと、胸が熱くなりました。」
バッサリと潔く、翔也という人物を切り捨ててました。そうか、米田家の4人か。ならしょうがないな。そういえば今週は「家族って何なん?」だったね。
この統括コメント記事というのは主に火消しとして投下されてきたものなんでしょうけれども、福岡県西方沖地震をスルーしたことについての「あえて」から始まって、火に油を注ぐばかりでしたね。これもまた、朝ドラ『おむすび』の風物詩となっていました。
いやー、終わっていきますな。不思議と寂しさはありません。不思議じゃないか。
第120回、振り返りましょう。
「食べり」注意報発令中
ここにきて、すごく「食べり」ですね。申し訳ないけど博多弁の素養がないもんで、「食べり」がどういうニュアンスの方言なのかわからんのですよ。「食べなさい」なのか「食べよう」なのか、あるいは「食べてください」なのか。
ニュアンスはわからなくても、糸島で佳代さん(宮崎美子)が落ち込む結さん(橋本環奈)に「食べり」したときは、それが心の底から出た思いやりを伴う言葉だとは理解できたんですよね。糸島生まれ、糸島育ちの佳代さんにとっては、結さんに気持ちを伝える上でもっとも適した言葉だったからです。
結さんが患者に連発する「食べり」には、相手に対する思いやりがないんです。相手に食べてほしいという思いを伝えるとき「食べり」よりもっと適した言葉があるはずなんだよ。神戸で6歳まで育ち、糸島での12年間の大半は震災のトラウマとアユのギャル化による家庭不和に囚われてシケた顔をして暮らし、最後の2年は「アゲ~♪」だったわけですよね。そんで高卒から30代中盤の今現在まで神戸と大阪で暮らしている。
つい「食べり」と言ってしまうほど結さんのアイデンティティが糸島にあるとは思えないし、最愛の家族である翔也や花ちゃんに何か食事を作って「食べり」と言ったシーンも記憶にない。
そういう人が患者に対して「食べり」を繰り出すたびに、何か取ってつけたような身勝手さといいますか、画面のこちら側に対する目配せといいますか、とにかく100%患者のためを思って言ってねーなという印象を与えているわけです。
詩ちゃんというキャラクターの作り込み
マキちゃんにそっくりの女の子として登場した詩ちゃん。この女の子の作り込みも甘かったなぁ。
生きてる意味がない、死にたいと思って食事を拒否していた子が、食事をとるようになって回復する。
食事をとるようになった理由は、アユ(仲里依紗)がいっぱいプレゼントをくれたことと、結さんが凍ったブドウを出したことでした。詩ちゃんは藤沢の出身で、ブドウは藤沢の名産なんだそうです。
詩ちゃんがなぜ希死念慮に囚われるようになったのか、結局『おむすび』は具体的なエピソードを示しませんでした。ただ、結さんとアユに優しくされたから生きる希望を取り戻した、として片付けている。
これ、すごく残酷なことをやってると思うんだよな。
詩ちゃんは8歳のときに両親を事故で亡くしていて、以降、中学卒業まで施設で暮らした。中卒でスーパーに就職しても馴染めず、さまようように先輩を訪ねて大阪に来た。そこでスマホと財布を盗まれ、病院に運ばれてきたら死にたいと言っている。
この子がなぜ、そう思うようになったのか。それを掘り下げて、その問題に結さんなり(『おむすび』なり)のアプローチがあって食べるようになったなら話はわかるんですが、ここに具体的な闇堕ちのきっかけが設定されていない。
作り手側が、具体的なきっかけを設定しなくても視聴者が納得すると思っているということです。
8歳で両親を亡くして施設で育って就職先のスーパーでも馴染めなかったら、闇堕ちして当然だろう、そんな奴は当たり前に死にたくなるもんだろう、見てる側だってそこに疑問は抱かないだろう、そう思ってるということです。
そんなことないんだよ。交通遺児でも施設育ちでも中卒で社会からドロップアウトしても、明るく元気に生きてる人はいくらでもいるんだよ。
今回のラスト、児相が迎えに来て退院していく詩ちゃんを、アユはまるで連行されていく死刑囚を眺めるような目で見ていました。
マキちゃん似の女の子が児相に連れていかれて、かわいそうだ。そういうシーンです。
『おむすび』は段取りの不備によってさまざまな矛盾を生み出してきたドラマでしたが、そうしたシナリオの技術面よりも、今回のように人の不幸や悲劇を記号化して展開に利用するという作劇の倫理面で大きな問題を抱いていた作品だったと思います。
与える側であり続けたいという欲望
結さんもアユも、徹底的に詩ちゃんに「与える」側として描かれました。与えれば、相手が心を開く。これも『おむすび』に通底する傲慢な思想のひとつです。
「なんで、私なんかにこんなに優しくしてくれるの?」
詩ちゃんは問います。
「だって、詩ちゃんに生きとってほしいんやもん」
それが結さんの答えでした。
「私は、詩ちゃんに生きとってほしい。やけん、食べり」
これで詩ちゃんは完落ちしてブドウを食うわけですが、おまえ誰だよって話なんですよ。結さんの「生きとってほしい」という言葉が、ここまで絶大な効力を発揮してしまう理由がない。
こういうことをやるから、『おむすび』は「管理栄養士のドラマ」から離れていってしまうんです。結さんアゲにこだわるあまり、問題解決の方法における属人性が強くなりすぎている。
「なんで、私なんかにこんなに優しくしてくれるの?」
この問いに対する「管理栄養士のドラマ」的な模範回答は「仕事だから」です。「生きとってほしい」のなんて当たり前で、食えるメニューを考えるのも当たり前、その上で、結さんの管理栄養士としての専門的な知識と哲学で解決を図るのが「管理栄養士のドラマ」であって、そのエピソードを創作するために作り手は取材をするんです。「自分がつわりのときにブドウ食えたからおまえも食えるだろ」なんて理屈は、いくらなんでも乱暴すぎるよ。
あと風見先輩の書道系YouTuberね、個人的には初登場時から武田双雲的なヤマっ気を感じていたので、あの設定は納得でした。珍しく納得したぜ!
(文=どらまっ子AKIちゃん)