『べらぼう』馬面太夫の吉原出禁と江戸時代の身分制度、そして“江戸クリエイター”というお仕事

前回・第11回の『べらぼう』「富本、仁義の馬面」は、江戸時代の「差別」「被差別」の問題まで描かれ、攻めているなぁ~と感じさせられました。
大文字屋の主人・市兵衛(伊藤淳史さん)が将軍・家治公(眞島秀和さん)の日光社参の行列を見たことで、吉原でも神社の祭礼にかこつけ、「俄(にわか)」――「素人演芸ショー」を開催したら、老若男女に「現在の吉原」をアピールできると思いつき、客寄せの目玉として馬面太夫(うまづらだゆう)こと二代目・富本豊前太夫(寛一郎)の出演交渉を蔦重(横浜流星さん)に依頼する……という筋書きでした。
吉原の親父衆の三味線の師匠もしている大黒屋の女将・りつ(安達祐実さん)によると、女人気が高いのが(浄瑠璃)富本節の名人・馬面太夫だそうです。しかし馬面太夫こと、2世富本豊前太夫(ぶぜんだゆう)からは「吉原は嫌いだ」とそっけなく出演を断られてしまいました。その理由は、吉原でのトラブルだったのです。
以前、吉原に身分を隠して遊びにきていた馬面太夫ですが、店側に素性を見抜かれ、「役者ごときが吉原に来るな」と裸同然の姿で吉原大門の外に放り出されてしまったのだとか。最近、蔦重や他の親父衆と対立しがちな若木屋の主人・与八(本宮泰風さん)がVシネのヤクザ風に恫喝し、馬面太夫と友人の歌舞伎役者・市川門之助(濱尾ノリタカさん)を追い出したという描かれ方で苦笑しましたが、蔦重は「役者が匿名で遊びに来ることなんかよくあることでしょう(なんでそこまでするんですかね)」と素直な感想を漏らしていました。
りつは、役者とか馬面太夫のような歌舞伎関係者は「四民(=士農工商という身分秩序)の外」の存在だからと語り、そうでもしないと誰でも芸能関係に憧れてまともに働かなくなっちまう……と説明していましたね。
「うまくまとめたな」と思った方も多いでしょうが、わかりにくいという声も聞きました。このあたりは今後の伏線にもなってくるはずですから、少しお話してみましょう。
江戸時代では芸能関係者でも能楽関係者には「士分」――正確には武士ではないけれど、それに準ずる高いステイタスが与えられていました。これはドラマの蔦重も指摘していたことです。
室町幕府の時代から足利将軍家が能楽・猿楽を好んだ結果、一般的に芸能関係は低く見られる中でも、「能楽」だけは武家の公式芸能として高く扱われるようになっていたのですね。
後に蔦重が役者絵を描かせた謎の絵師・東洲斎写楽も、能楽関係者の斎藤十郎兵衛だったといわれ、「士分」の能楽関係者が歌舞伎の役者絵「なんか」を描くことは大問題となりうる話だったのです。だから写楽は覆面絵師にならざるをえなかった……というわけですね。
ところが、能楽から派生した歌舞伎はもちろん、人形芝居関係者などのステイタスなども能楽関係者よりも低く見られていました。
そして穢多(えた)・非人(ひにん)といった「被差別民」たちを束ねる、自称「長吏頭(ちょうりがしら)」、幕府などからは「穢多頭(えたがしら)」と呼ばれた矢野弾左衛門の支配下に置かれていたのです。
以前のドラマでは、一橋治済(生田斗真さん)が田沼意次(渡辺謙さん)と共に「当世流」と称して人形を操って見せた場面で、田安賢丸(寺田心さん)が大人顔負けの苦言を呈していたことを覚えている読者もいるでしょうが、あのシーンも実はこういう芸能内のヒエラルキーと関連していたわけですね。人形つかい「なんか」のマネをするなど、高位の武士にふさわしい行いではない!というのが賢丸の主張です。
なお、戦国時代において「長吏」とは、武士たちから命じられ、鎧など武具の原料となる革を用意する仕事の人々を指しました。武士からは保護された一方で、牛や馬の死体から皮革を剥ぎ取らねばならず、その作業過程の血なまぐささなどによって、一般社会からは忌避されたのです。
仕事が昼過ぎに終わる武士の副業
こういう皮革産業従事者や、処刑人など一般人が嫌がる(とされた)仕事に携わってきた職能集団が、「被差別民」なのでした。江戸時代では「長吏」という言葉が、「穢多」「非人」をマイルドに表現する用語として使われたのです。
そして西暦18世紀初頭までは、歌舞伎の演目の伴奏音楽として舞台で奏でられた浄瑠璃の演者たちの元締めも「長吏頭」こと矢野弾左衛門だったのですね。補足しておきますが、馬面太夫の富本節も浄瑠璃の一派です。
しかし、とある歌舞伎の公演が弾左衛門への「挨拶」なしに――つまり冥加金の類も出さずに始まったことから、弾左衛門の手下が舞台に上がって公演妨害したことでトラブルが表面化。これを機に弾左衛門の支配から脱したい歌舞伎関係者が、町奉行に訴え出る事件となりました。
大金を稼げる役者たちを支配下においておきたい弾左衛門でしたが、歌舞伎関係者には高位の武家や、大奥女中など有力者の隠れファンを持つ者も多く、旗色が悪かったようですね。宝永5年(1708年)、江戸歌舞伎の「宗家」とされる市川團十郎(二代目)が勝訴し、弾左衛門から独立できる喜びを『勝扇子(かちおうぎ)』という書物にまとめました。
この訴訟後は基本的に役者はもちろん、浄瑠璃の演者たちの身分も「賎民(=被差別民)」を脱して「良民(=一般人)」に昇格したはずなので、ドラマで描かれたように「当道座」の鳥山検校(市原隼人さん)といった有力者の支配下に入る必要が必ずしもあったのかな?とは思ったりはします。まぁ、鳥山検校の妻となった元・瀬川(小芝風花さん)こと現・瀬以と蔦重をつなげるためのドラマの演出でしょうかね……。
しかしその後も吉原では、彼ら歌舞伎関係者のことは、座敷に(彼らのパトロン客のアテンドとして)上げることは許しても、高級な遊女とねんごろになることは許さないというルールが守られ続けたそうです。
18世紀後半に出版され、吉原のさまざまな風習についてまとめた『吉原大鑑』という書物でも、客は遊女と遊ぶ前に「かわら者御法度の客にて御座なくといふ文言」を紙に書いて提出させられたという下りが出てきます。
「かわら者御法度の客」というのは、当時の「被差別民」にあたる職業の客という意味で自分は違うと念書を出す必要があったという意味です。
ちなみに「被差別民」であることと、富裕であることは別問題で、矢野弾左衛門自身も「被差別民」でしたが、苗字帯刀を許され、吉原近隣の浅草新町(あさくさ・しんちょう)の屋敷に住み、その経済的実力は3000石の旗本級とか、一説によれば大名同然の暮らしを送っていました(ちなみに「矢野弾左衛門」とは代々世襲された名跡です)。
吉原は幕府が認めた色街で、町奉行の支配下にありましたから「被差別民」の客たちに大きく出られた一面もあったでしょう。しかし、吉原は弾左衛門の屋敷と距離的に近く、弾左衛門の配下たちが暮らす「穢多村」のご近所さんでもあったので、彼らの顔色をうかがい、法的には「被差別民」でなくなった後でさえ、歌舞伎関係者と遊女を遊ばせないルールを守り続けた可能性はあると思われます。
ドラマの時代より20年ほど前に刊行された『当世武野俗談』(宝暦6年・1756年)、幕末に刊行された『燕石十種』(文久3年・1863年成立)などにも、松葉屋の瀬川に惚れこんだ常磐津節の名人・文字太夫に対し、瀬川は会いはするけれど、「芸能関係の客は取らない」という吉原の掟に従って絶対に抱かれなかった……という逸話が紹介されています(ちなみに常磐津節から、派生したのが馬面太夫の富本節です)。ドラマの「鳥山瀬川」の話ではなさそうですが、興味深いですね。
さて、次回のドラマは「俄祭りの企画を巡り、大文字屋(伊藤淳史)と若木屋(本宮泰風)が争う。蔦重(横浜流星)は、祭りを描く本の執筆を平賀源内(安田顕)に依頼すると喜三二を勧められる…」という筋書きだそうです。「喜三二」とは、朋誠堂喜三二(ほうせいどう・きさんじ)などの筆名で知られる、久保田藩(現在の秋田県)の武士・平沢常富(ひらさわ・つねとみ/つねまさ・尾美としのりさん)のことですね。平沢は久保田藩の江戸留守居役で、江戸に定住し、幕府や他藩との折衝役をしていました。
前回のラストでも、鱗形屋(片岡愛之助さん)が『金々先生栄花夢』の作者・恋川春町(岡山天音さん)と打ち合わせをしていましたが、恋川の本名も倉橋格(くらはし・いたる)で、彼も小島藩(現在の静岡県にあった小藩)の武士でした。当時、多くの武士の仕事は昼過ぎには終わり、帰宅後は副業タイムでしたから、執筆時間も確保できていたのでしょう。副業は公認でしたが、彼らの執筆内容が(遊里など「悪所」を舞台にした)おもしろおかしい「黄表紙本」ですから、公にはできず、ペンネームで素性を隠す必要があったのです。
「江戸文化」などと現代の我々は総称しがちですが、実際はクリエイターの生まれ持った身分や職業が大きく影響していたのですね。
※本文中にある差別語は歴史的用語としてそのまま使用しています。
(文=堀江宏樹)