CYZO ONLINE > 芸能ニュース > 『おむすび』半年間、おつかれさまでした

『おむすび』最終回 「米田結=人助け=与える者」に終始した半年間、おつかれさまでした

『おむすび』最終回 「米田結=人助け=与える者」に終始した半年間、おつかれさまでしたの画像1
橋本環奈(写真:GettyImagesより)

 はー、終わりました。NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』、今日で最終回。

『おむすび』代替医療に誘導する有害ドラマ

 結さん(橋本環奈)は常に与える側であり、与えられる側は問答無用でそれを受け入れ、感謝しなければならない。そういうドラマでしたね。振り返りましょう。

「みんなで育てる」

 詩ちゃんの件、失敗してるなぁと思いました。結さんと詩ちゃんの関係性に根拠がないんだよな。「家族だから」「家族になるから」で押し通してるわけだけど、これって「孤児なら家族をほしがって当然だろ」「誰でもいいから家族になってほしがってるだろ」という決めつけの上に成り立ってる展開なんですよね。

 アユが詩ちゃんに後見人になることを伝えたとき、詩ちゃんは「すっごい喜んでた」そうですけど、なんで「すっごい喜んでた」かを説明する必要がないと思ってる。これを説明せずとも伝わるという前提で作劇することは、遺児に対する差別なんですよ。その環境だけを描写して「与えられる側である」「ほしがっている者である」と決めつけることは下品だし不遜なんです。

 そして、詩ちゃんが心を開いたのはアユ(仲里依紗)という個人であって、新しく見つけた居場所は米田家ではなくKOGです。

 だから、アユが児相に何か言われて詩ちゃんの面倒を見ることをためらったとしても、「そんなのアユらしくない」と言う立場にいるのはムータンたちKOGの従業員であるほうが自然です。「みんなで育てる」も、KOGメンバーが言うなら説得力があるし、ギリ詩ちゃんの意志にも沿っているように見える。

 詩ちゃんという孤独な少女を登場させて、「血縁のない家族」という像を提示しようとしたことはわかります。その尊さ、美しさを描こうとしたのに、結局はアユと結の「血縁」で縛ることしかできなかった。最終回まで来て、やろうとしたことが実現できていない、そういう『おむすび』というドラマの弱さを感じました。「米田結=与える者」という定義さえなければ、もっと柔軟に詩ちゃんのエピソードを作れたはずなんです。

「まだあったかいねえ」

 最後の「チンしておばさん」のエピソードも失敗してると感じます。

 まず、結さんたちがテレビで『おむすび』を見ているというメタ描写ですが、1月17日の実際のニュース映像が流れた回を使っているために、直感的に「結たちが『おむすび』を見てる!」と伝わりにくい。テレビの中のナレーションが言う「震災から17年」という言葉の違和感が先に来てしまって、カタルシスがない。単に小賢しいだけになってる。

 そしてアユの「今年も行くの?」というセリフによって、結さんが毎年、1月17日の朝に「チンしておばさん」を呼び出しておむすびを与えているという習慣が唐突に披露されます。

 このイベント、何なん?

 おばさんにはおばさんの人生があることを忘れてないか? と思うわけですよ。

 おばさんにとって結さんは30年前に避難所で遭遇した被災者のひとりに過ぎない。「チンして」と言われたことは覚えていたかもしれないけれど、1月17日という神戸の人にとって大切な日を一緒に過ごすべき相手とは思えないんです。しかも早朝、朝の8時に握ったおむすびが冷めない時間帯に、寒風吹き荒ぶ真冬の高台に呼び出されている。

 おばさんだって朝ドラ見たいかもしれないじゃん。このおばさんが実は「どらまっ子AKIちゃん」かもしれないじゃん。なんでこんな自己満足に付き合わされなきゃならないのよ。この人だって家族と朝ごはん食べたいだろ。

 最後の最後に、結さんが与える側であり、それを与えられた者が喜ぶさまが美しいという主張を見せつけられることになりました。

 そして「まだあったかいねえ」と言わせたのは、最大の失敗だったと思うよ。「チンして」と言ったことを後悔しているはずなのに、冷めたおむすびより温かいおむすびのほうがおいしいと言ってしまっている。「あのときもらったおむすびは、やっぱり冷めてて不味かった」というダメ押しになってる。

 誰が、どんな思いで作り、どんな思いで届けてくれたのか、あのときのおばさんのおむすびがどんなに素晴らしいものだったのか、それが大人になった結さんにはよく理解できました、ということを言うべきなのに、まだ温度の話をしてる。

 あと年寄りにおむすび食わすなら、お茶くらい用意しとけよ医療従事者。

いろいろありました

 いろいろあったけど、今思い出すことをつれづれに書き記してこのレビューも終わりましょう。

 よかったのは、モリモリがシミュレーションで役者魂を発揮したところと、愛子が出版社に呼ばれて「初めてオフィスに来た」ことに感動していたところかな。あと、聖人とナベべのジャズバー、それに聖人が永吉の髪を切ったシーンもよかったです。

 結さんを見てて「いいな」と思ったことあったかな。あー、糸島のフェスのステージで楽しそうにパラパラ踊ってたところはよかったです。あのフェスはピーターと松平健のマジックショーもよかった。あ、そうだ、第1週の最後で結さんが頭にひまわり付けて鏡を見つめてたところ、あれ『タクシードライバー』のデ・ニーロみたいでカッコよかったんだよな。その後の展開にすごく期待したんだった。こんなことになるとはねえ、未来はいつだってわからないものです。

 シナリオ的にいちばんヤバイと思ったのは、アユとチャンミカの関係ですかね。アユはチャンミカに中学を出てから会ってなくて、神戸の倉庫で偶然出会って、それからガーリーズと仕事をするようになったという話の後に、東京で一緒に読モをやってたという話が出てきた。ここまで完全なる歴史改竄が堂々と行われるドラマを初めて見た気がします。

 それと「強盗」と「小売店」もヤベーと思ったな。ここまでシンプルかつ明確な誤用がNHKで放送されたのも前代未聞じゃないかと思いました。

 翔也の「へんかきゅう?」もすごかったね。『おむすび』の伝統芸能となった秘技・オウム返しの極北といったところでした。

 意味わかんなかったのはサッチンの「若い男苦手」設定とか、直近だと結さんが丸尾を説得した後にマスク外して笑顔を見せたところとか。翔也が全然病院に行かなかったりUNITEしたりというのは、意味がわからなくても作劇上の意図はわかるんです。でも、たまに「純粋に意味がわからない」というシーンが出てくるのも『おむすび』の持ち味でしたね。

 もういいかな。

 総じてクソでしたし、ノの字はオリジナルは無理な脚本家だと思います。統括さんたちも、もうドラマはやんないほうがいいよ。第2週以降、「放送に耐えうる水準に達していない」と感じる展開のオンパレードでした。「書き換えればいいべ!」というエクスキューズも姑息だし、アユの初めての墓参りや結さんにとっての東日本大震災を描かなかったことは「イモを引いた」と思う。そして、昨日さんざん言ったけど医療ドラマとしては「つまんない」を超えて「有害」でした。

 結局のところ、人助けとか言ってるヤツはろくなもんじゃねーなという感じですかね。

 でもまぁ、ここまで極端に歪んだドラマが放送されたことで、いろんな人のいろんな意見、いろんな見方を知れたことはよかったと思うんだよな。こっちからしたら思ってもみない感想が本気でつぶやかれていたりして、驚くことも多々ありました。

 そんなわけでね、こんな駄文に長々とお付き合いいただいた読者のみなさんには感謝しかありません。ではでは。

(文=どらまっ子AKIちゃん)

◎どらまっ子AKIちゃんの『おむすび』全話レビューを無料公開しています
第1話~第56話
第57話~

どらまっ子AKIちゃん

どらまっ子。1977年3月生、埼玉県出身。

幼少期に姉が見ていた大映ドラマ『不良少女と呼ばれて』の集団リンチシーンに衝撃を受け、以降『スケバン刑事』シリーズや『スクール・ウォーズ』、映画『ビー・バップ・ハイスクール』などで実生活とはかけ離れた暴力にさらされながらドラマの魅力を知る。
その後、『やっぱり猫が好き』をきっかけに日常系コメディというジャンルと出会い、東京サンシャインボーイズと三谷幸喜に傾倒。
『きらきらひかる』で同僚に焼き殺されたと思われていた焼死体が、わきの下に「ジコ(事故)」の文字を刃物で切り付けていたシーンを見てミステリーに興味を抱き、映画『洗濯機は俺にまかせろ』で小林薫がギョウザに酢だけをつけて食べているシーンに魅了されて単館系やサブカル系に守備範囲を広げる。
以降、雑食的にさまざまな映像作品を楽しみながら、「一般視聴者の立場から素直に感想を言う」をモットーに執筆活動中。
好きな『古畑』は部屋のドアを閉めなかった沢口靖子の回。

X:@dorama_child

どらまっ子AKIちゃん
最終更新:2025/03/28 14:00