『あんぱん』第36回 朝ドラヒロインはグロテスクな軍国主義に染まるべきか否か

NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』も第8週「めぐりあい わかれゆく」が始まりました。師範学校で叩き込まれた愛国精神を胸に教師となったのぶちゃん(今田美桜)、あっという間に1年半が過ぎ、受け持ちの児童らは「実に迷うことなく、すくすくと愛国の心が育っている」(校長談)なのだそうです。つまり「朝田先生の指導に迷いがなく」「まさに愛国の鑑」(同)なんだって。
あらすじとしてはそういうことになっていますが、実際に劇中では、のぶちゃんは別に愛国精神を叩き込まれてはいないし、勝手に目覚めただけだし、1年半にわたる「迷いのない」指導というものも描かれてはいません。ヒトラーを礼賛する児童、戦争ごっこに興じる児童を登場させ、それをニコニコと満足そうに眺める主人公を映して「迷いのない指導をする者」と定義している。
愛国には2つの面があって、ひとつはお国のために出征した兵隊さんたちの身を案じ、思いを馳せること。もうひとつは敵国の人間を殺すことへの肯定なんですよね。のぶが「愛国の人」であるとしたいならその2つともをこの人に背負わせるべきなんだけど、朝ドラヒロインをそこまで“汚す”ことはできないということなんだろうな。後者をのぶの思想として描かず、こともあろうか子どもたちに背負わせるという手法は作劇として実にグロテスクだと感じますし、「朝田先生の指導に迷いがない」というセリフとは裏腹に、のぶの愛国精神をどこまで具体的に描くかというところに、作り手側の迷いがあるように思います。
そうした迷いを抱えながらドラマはのぶの教師生活を「順風満帆である」「生きがいを感じている」ということにして、教師を続けるか縁談を受けるかという選択をさせることになるわけですが、のぶが教師に就任してからの1年半をすっ飛ばしたことによって、この「生きがい」にリアリティがない。言葉では「愛国の子を育てたい」みたいなことを言うけれど、なんで教師を続けたいのか、心の底でどう思ってるのかが全然伝わってこない。
せめて1人でも2人でも、児童とのエピソードがあったらよかったと思うんですよ。師範学校で薄ぼんやりした思想を抱いた主人公が実際に教壇に立って子どもたちと向き合ったら、そこには教師と生徒の間にしかないリアルがあるはずなんです。例えば嵩みたいな都会からやってきて御免与に馴染めない子がいて、その子とどう向き合ったか。例えばのぶみたいなハチキンで、男子児童を下駄で引っ叩くような女の子がいて、その子と接することでのぶは何を感じたか。そうしたエピソードの中で、師範学校時代に考えていた教師像と現実とのギャップを知り、「教師を続けたい」という決意を新たにするという段取りがあったなら「縁談を受けるか否か」という選択にも重みが出ようものですが、師範学校時代の薄ぼんやりした思想のまま、1年半たった今も薄ぼんやりと愛国ごっこをしているようにしか見えない。だから、この人の選択に興味が持てない。
月曜にして、今週描かれようとするお話に「興味が持てない」という結論が出てしまった第36回、振り返りましょう。
「まさかぁ」なのか、そうなのか
数々の縁談が持ち込まれて戸惑うのぶちゃん。3姉妹の寝室で、メイコは「お姉ちゃんには心に決めた人がおると思うちょった」と言います。
「まさかぁ」
のぶの答えは「まさかぁ」でした。
子どものころから涙を分け合ってきたり、ずっとそばにいてくれたと黒井先生(瀧内公美)に堂々と言い放ったり、そういう相手がのぶという子にはいて、私たちははっきりしないのぶの態度にやきもきしながらも、メイコと同じように「嵩はのぶの心に決めた人だ」と思わされてきました。というか、『あんぱん』というドラマはのぶに嵩を「突き放させない」ことでどうにかこうにか物語を作ってきた節があった。
のぶにお見合いさせるためには仕方ないんだろうけれど「まさかぁ」はないよなあ。シラケるわ。めっちゃ泣いてたやん駅で。あのときは「なんで泣いてんだっけ」と思ったけど、もう過ぎてしまったからこっちもなんとか納得してきたわけですよ、のぶちゃんにとって嵩はかけがえのない人で、だから泣いてんだなと無理やり飲み込んできたのに「まさかぁ」かよ。
ホントに、どんどん、あらゆる方向からのぶちゃんという人物が信用できなくなっていく。今田美桜はすごく損してると思う。河合優実が今日も無言の横顔一発で視聴者(俺たち)の心をわしづかみにしている一方で、ずっと「なんやねんこいつ」状態になってる。
嵩のほうもわからん
先生によれば、嵩は絵のタッチが変わったのだそうです。世の中が戦争一色になってきて、町も「楽しんじゃいけない」という雰囲気になっている。そういう雰囲気の中で、嵩の絵もついつい暗くなってしまった。たぶんそういうことを言いたいんだと思うんですよ、自由を謳歌していたのも束の間、戦争が嵩の作品にも影を落とし始めている。
そういうことなのかと思ったら、自室で健ちゃん(高橋文哉)とはのぶちゃんの話しかしていない。私たちはやなせたかし先生がモデルのドラマを見ているわけで、その「絵が変わった」ことは彼の存在の根幹にかかわる変化であってほしいんです。若い芸術家の卵2人が部屋にいて、芸術の話をしないで1年半だか2年だか前にケンカした女の子の話をしている。
これの何が不満かって、青春を描けていないことなんです。この人も戦争に行くんだよね。戦争に行くにあたって、その踏みにじられるべき青春が描けていない。いわゆる、フリが効いてないんです。ただ、うじうじしている。
何かこう、史実と作家のエゴの間で、ドラマが迷走して行き場をなくしている。そういう印象です。大丈夫かな。
(文=どらまっ子AKIちゃん)