『べらぼう』ついに江戸城でお家騒動が勃発! 島津家による「身分ロンダリング」とその“旨味”

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。
前回の『べらぼう』では、とりわけ江戸城サイドが熱い展開を見せ、楽しませてくれました。
将軍・家治(眞島秀和さん)の後継ぎだった家基(奥智哉さん)の急死以降、モメていた後継者問題が、一橋治済(生田斗真さん)の長男・豊千代が家治の養子に決定したということで解決するかと思われたところ、あらたな問題の火種がくすぶりはじめるという内容で、非常に面白かったですね。まさに「お家騒動」です。
ドラマのセリフでも触れられましたが、史実でも安永5年(1776年)、豊千代(当時4歳)は島津家の茂姫(3歳)と婚約していたのですね。この時点では一橋家と島津家という大名同士の婚約だったので問題はなかったのですが、豊千代が将来の将軍として、徳川宗家の養子になると話が違ってきたのです。
3代将軍・家光以降、徳川宗家には将軍御台所(正室)を、五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条の五家)や宮家から迎えるという伝統が確立されていました。11代将軍となる豊千代(のちの家斉)だけ島津家の姫を御台所にすることは、その伝統に反することだったので、幕府要人が難色を示したのです。
当初、豊千代の父・一橋治済にも「島津の茂姫との婚約を解消しろ」という幕府の意向が伝えられましたが、島津家当主の重豪(しげひで)が強い難色を示しました。
重豪いわく、この結婚は、彼の義理の祖母にあたる浄岸院(じょうがんいん)の遺言であるとのこと。浄岸院とは、もとは5代将軍・徳川綱吉が「子どもが生まれない」と嘆く自分の側室のために、京都から迎えた公家出身の養女・竹姫のことです。
竹姫も将軍養女として栄光の未来が待っているはずだったのですが……婚約者が次々と亡くなり、当時では「行き遅れ」とされた二十歳をすぎても大奥にとどまらざるを得なくなり、後には八代将軍・吉宗との“親密な関係”が噂されたのでした。現代にもよくある「同情」からの「愛情」というやつです。
竹姫にのぼせあがった吉宗は、血縁上は大叔母にあたる姫を、継室(後妻)として迎えようとさえしたのですが、ときの大奥の重鎮である天英院(近衛熙子、このえひろこ)から「大叔母との結婚など近親結婚で許されない!」という猛反対を受けました。
吉宗にとって、天英院は大恩人です。彼女から抜擢されて、吉宗は将軍位を継ぐことができた経緯もあり、その反対を押し切ることができず、竹姫の嫁ぎ先を改めて探すことになったのでした。
しかし、何人もの婚約者に急死された竹姫は「不吉な女」でしたし、吉宗が結婚まで考えた「元カノ」竹姫を迎えたいという大名はなかなか見つからず、天英院の尽力あってときの薩摩藩主・島津継豊の継室として、彼女を嫁がせることにようやく成功したのですね。
もともと島津家は、近衛家の所有する薩摩地方の荘園管理を任せられた家柄で、両家には数百年にわたる交流がありました。特に江戸時代になってからは、度重なる縁組や養子も含め、家同士の連帯は強固になっていたのです。
しかし、島津継豊は戦略家でした。竹姫との結婚に際し、「ここぞ」とばかりに将軍家に、かなり厚かましい条件をぶつけてきたのです。
それは大きく分けて3つなのですが、
「1・竹姫に男子が誕生しても世継ぎにしない」
これは将軍家が島津家のあり方に口出ししてくることを避けるためです。
「2・隠居した前藩主が国に帰るのを許すこと」
当時の大名には「江戸定府(えどじょうふ)」――幕府への反乱の首謀者となることが危惧され、江戸定住が義務付けられました。代替わりした隠居後も帰国は許されません。しかし、隠居後は国元に帰れるとなれば、生活の自由度は増しますし、国元での政治的影響力は高まり、配下の武士たちの統率力も上がります。
「3・薩摩藩の江戸屋敷に水道を引くのを許すこと」
水道事情がかなり悪かったのが当時の江戸。しかし大名家の大半に水道を引く権利は与えられておらず、島津家も質の悪い井戸水でガマンするか、市中の給水所で水を買うしかなかったのです。竹姫が嫁いだころの島津家は72万9千石(約73万石)、あるいは77万石という大大名(全大名のうち第3位の所領)で、江戸在府の藩士たちも多いので、水代もばかにならなかったわけですね。
島津家へのさまざまな「お目こぼし」
しかし、吉宗はこれらの条件すべてを呑んだ上で竹姫を島津家に送り出しました。
竹姫と島津継豊の夫婦仲は悪かったのですが、継豊の死後、竹姫は義理の孫にあたる重豪を寵愛し、その人格形成に大きな影響を与えました。竹姫は公家の娘に生まれ、江戸城大奥で長年暮らした人物でしたから、重豪にも洗練された生活スタイルが叩き込まれます。ドラマの中でも葡萄酒の入ったガラスの器(両方とも当時では超高級品!)を重豪や治済が傾けるシーンが出てきましたが、そのあたりの反映でしょう。
ちなみに徳川家康・秀忠・家光の三代に「ブレーン」として仕えた臨済宗の僧・以心崇伝(いしんすうでん)が中心となって記した『異國日記』という書物にはすでに「ふたう酒」の表記があり、最上流階級では葡萄酒がたいへんな貴重品、あるいは薬の類いとして飲まれていたことがわかります。
家康の遺産目録『駿府御分物御道具帳(すんぷおわけものおどうぐちょう)』及び『貞德文集』にも「葡萄酒」が見られますね。遺産として計上するほどの存在だったということです。
さて、重豪の時代に薩摩藩上層部は非常に垢抜け、上方の文化が多く導入されました。藩主の側近にあたる上士たちには薩摩弁の使用まで禁止されたことが有名です。
大河ドラマ『西郷どん』(2018年)では、主人公・西郷隆盛(鈴木亮平さん)をはじめ、多くの登場人物が薩摩言葉を使用していた記憶がありますが、おそらく史実の西郷隆盛は出世を重ねる中で、当時の標準語に相当する江戸言葉を習得していたのではないでしょうか。
――そういう歴史的経緯を反映し、『べらぼう』の島津重豪(田中幸太朗さん)が話すのも完全に「標準語」だったということですね。
しかし、ドラマでは本当は「側室でも良いのに」といっている島津重豪に、「陰謀家」一橋治済の強い意向で、絶対に豊千代の正室として茂姫を嫁がせるということに固執させたという演出が採用されていました。
史実を見る限り、この時の一橋治済は、豊千代と茂姫の婚約解消を島津重豪に説得した側です。ところが重豪は幕府内で神格化された8代将軍・吉宗の関係者の竹姫=浄岸院の遺言まで持ち出し、茂姫と将来の将軍である豊千代の結婚を予定通り敢行することにこだわりました。
将軍家の外祖父になることができれば、島津家の政治的な立場は一気に上昇します。
いくら所領が多くても中央政界では冷遇された外様大名たちですが、島津家は名実ともにトップクラスの発言権を持つことができるでしょう。
京都の五摂家、もしくは宮家の姫しか将軍家に嫁げないという慣例も、島津家と近衛家の長年の縁を使い、茂姫を近衛家の養女にして……いわば「身分ロンダリング」をすることで解消させました。
こうして豊千代こと家斉に(重豪の力技で)嫁いだ茂姫は、家斉の側室が生んだ子すべての「御台所御養」として自分の子とするなど、島津家が将軍家外戚の座を確保する礎を築きます。
当時、島津家にはさまざまな「お目こぼし」がありました。
具体的には、外国との公易は厳しく取り締まられていたはずなのに、(当時の感覚では外国貿易だった)琉球貿易を薩摩藩が行い、莫大な利益があがっているのに黙認しただけでなく、薩摩藩の石高が70万石よりも(農業改革などで)大幅に上昇していると知りながらも、「将軍家の外戚」という理由で見ぬふりをしてくれたのでした。
こういう外戚へのあまりに甘い態度が、薩摩藩に(幕府から見れば)余計な力を蓄えさせ、それが幕末における幕府瓦解にもつながったわけで、歴史とはなんとも皮肉なものですね。さらに同時に当時の武士たちにとって「結婚」とは、愛情問題などではなく、政治そのものであったことがうかがえ、実に興味深い一幕なのでした。
次回の『べらぼう』は「蔦重(横浜流星)は、鶴屋(風間俊介)で政演(古川雄大)が書いた青本が売れたことで、地本問屋との力の差を感じる。一方、意次(渡辺謙)は蝦夷地の上知の件で動き出す」……とのことですが、蔦重の耕書堂と鶴屋の主権争いは史実でも確認でき出版業界の一大事件でした。しかし、今回は将軍家の「お家騒動」につい熱が入り、文字数がなくなってしまったので、また次回、お話していきましょう。
(文=堀江宏樹)