『あんぱん』第59回 やなせたかし氏の作品群を解体して、使える部品を置いただけ感

えーっと、ひとつも泣けなかったですよ、今日のNHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』。戦争が悲惨だとも愚かだとも感じなかったし、死んだ岩男の覚悟も無念も何も伝わってきませんでした。
『チリンの鈴』という作品について、知らなかったのでちょっと調べただけの知識で言っちゃいますけど、作中、子羊に復讐された狼は「チリン、よくやった」の後に「こうなるのは一匹狼の運命」みたいなことを言ってるらしいですね。
岩男おまえ一匹狼じゃないよな。祖国には妻もいるし、まだ会ってない息子もいるんだろ。戦地にいる兵士の家族への執着を描かないで、何が「戦争を描く」なのよ。せめて死に際の愛する人の名前くらい呼ばせてやりなさいよ。
仮に岩男が1年前、リンの母親を撃ち殺した瞬間に復讐に遭う覚悟を決めていたとするなら仲良く相撲を取ってた意味がわからないし、仮に岩男がリンを復讐の徒だと知った上で償いのつもりで仲良くしていたとするなら、この期に及んで突き放そうとした意味がわからないし、仮に突き放すことで「リンを人殺しにしたくない」という親心があったとするなら易々と自分を撃たせる意味がわからない。このエピソード、丸ごと意味がわからない。
というか、意味なんかないんだよな。やなせたかしがモデルのドラマがあって、なんかちょうどいい復讐譚がやなせ氏の作品群の中にあって、適当につなぎ合わせてポンと置いただけなのよ。
ホントに、昨日も書いたけど、気安く消費してんなと感じるわけです。やなせ氏のキャリアも、創作物も、『あんぱん』というドラマは実にインスタントに消費してる。勝手に解体して使える部品をつなぎ合わせてるだけ。まるでリスペクトが感じられないし、リスペクトをしてるんだというなら制作にもシナリオにもリスペクトを表現する技術がないということです。
第59回、振り返りましょう。
戦場では先に銃を下ろしてはいけない
山道でリンを見つけた八木ちゃん(妻夫木聡)、ピストルを向けるリンと対峙すると自分は銃を下ろし、「怖がらなくていい、君をつかまえに来たんじゃない」と話しかけます。
いや、あのね、その子はついさっき人をひとり撃ってるのよアンタ知ってるでしょ。捕まる恐怖に慄いて、必死に自分を奮い立たせてピストルを向けてるわけじゃなくて、「撃つ子」なの。八木ちゃん、君のことなんて怖くないの。
ここで簡単に八木ちゃんが銃を下ろしてしまったこともまた、このドラマが「戦争を描けていない」と感じる部分なんです。銃を下ろす理由が「相手が子どもだから」しかない。
本来、ゲリラの子がピストルを手に人を殺してしまう状況だったことが戦争の悲劇なのであって、「子どもなのに……!」という話をしなければいけないところで「子どもだから」撃たないと決めつけている。さっき撃ってるのに、そういうことをやる。
リンに八木を撃つ気がなかったことを表現したいなら、なおさら八木は銃を下ろしてはいけなかったんです。銃口をリンに向けたまま、リンがピストルを下ろすまでプレッシャーをかけ続けなければならなかった。
岩男の仇を討つとか討たないとか、それが卑怯者だとかそうじゃないとか、そういう話以前に八木ちゃんの「戦争だからこの子を撃ち殺すべき」だし「今、ここで殺らなきゃ殺られる」という状況の中で、「いやしかし戦争とはいえ子どもを撃ちたくはない」という、その葛藤すら描けない。この葛藤がないから、嵩に迫る場面に説得力が生まれない。平和ボケですよ、平和ボケした頭で書いてるからこんなことになる。
「おまえはどっちだ! どっちなんだー!」って『どっちの料理ショー』の三宅裕司みたいになってましたけど、そんな大声出したらみんな起きちゃうよ。貼り紙も破っちゃってさ、懲罰だよ懲罰。まあこの人も空腹でおかしくなってしまったんだろうね。そのわりにはデカい声が出せるんだな。元気かよ。
アブラムシかな
タンポポの綿毛が舞うシーンは美しかったですね。その幻想的な草原で、タンポポを引っこ抜いてその根を食らう兵士というコントラストも、なかなかのペーソスを含んでおりました。広大な草原に、タンポポが無限に生えている。その綿毛は「命をつなぐもの」ですからね、示唆的でもあるわけだ。
「そのタンポポすら、食べ尽くしてしまい──」
食べ尽くしただと。あの草原のタンポポを食べ尽くすのに何時間かかるんだよ。明らかに消費カロリーが摂取カロリーを上回ってるだろ。その後、嵩(北村匠海)は山道をひとりで歩きながら栄養失調で倒れてしまうわけですが、この移動は何なん? 何かの命令でどこかへ行こうとしてるのか、腹が減ったからタンポポ狩りに行ったのか、史実から引用したタンポポのエピソードを置くにしても、もうちょっと上手くやれんもんかしら。結局、嵩以外は誰も栄養失調になってないし、八木ちゃんは元気だし、戦争だけでなく飢餓についても全然ちゃんと描けなかったな、という感じです。
サプライズニノ~!
それにしてもよくしゃべるな、こいつ。まあ死んでるし、ここで清(ニノ)が言ってることは全部「嵩が言ってほしいこと」と解釈するとしてですよ、戦争が惨めだとかくだらないだとかはまあいいとしても、創作につながるくだりはちょっといただけませんでしたねえ。
「でも人間は美しいものを作ることもできる」
「だってあんなにみんな喜んでたじゃないか、おまえの紙芝居」
「おまえは父さんの分も生きて、みんなが喜べるものを作るんだ」
「作り続けるんだ」
おまえの紙芝居にみんなが喜んでたのは、現地の通訳がおもしろおかしく誤訳したからだよね。本来おまえが伝えたかったメッセージは何ひとつ伝わってないし、むしろみんなは、おまえの作品を茶化して笑ってたんだよね。
そう描いておいて、それを「やなせたかしの創作の原体験」とするのは、これはそうとうヤバいことをやってるんでない?
なんかねえ、白状しちゃってるなと感じたんですよ。
自分が作品を世に出して、そこで言いたかったことがストレートに伝わることなんて、滅多にない。それでも、見た人が笑って、喜んでくれたらそれでいい。たとえその作品が誰かに捻じ曲げられて、妙ちくりんなイデオロギーを混ぜ込んだものとして公開されて、それが作家自身の意に反する形であっても構わない。視聴者や観客がどうして喜んでいるのかは関係ない。「喜んだ」という結果だけあればいい。
それはテレビの世界で売れっ子シナリオライターをやってきた中園ミホ氏の本音かもしれないし、ある意味でとってもリアルな思いだとも思うんです。そうやって生きてきた、生き抜いてきたという作家の矜持なのかもしれない。
だけど、それをやなせ氏がモデルのドラマで、やなせ氏の原体験としておっ被せてしまうのは、これはもう傲慢だよね。やなせ氏は違うかもしれないじゃん。伝えたいことが伝わらなかったら意味がないって思ってたかもしれないじゃん。だから晩年まで売れなかったのかもしれないじゃん。勝手に決めつけてんじゃないよ。
今日はけっこう、実在のクリエイターをモデルにドラマを作る上で、本当に大切にしなきゃいけないものを砕いた気がするよ。罪な作品だね。
(文=どらまっ子AKIちゃん)