『あんぱん』第80回 パンも速記も写真も、無視される「現実のルール」そして主人公の信念の話

冒頭、釜じい(吉田鋼太郎)の葬式に突然ヤム(阿部サダヲ)が現れます。数年前の戦時中、乾パンを焼くのが嫌で朝田家を去って行ったヤムさん。今は闇市の仲買いみたいな仕事をしているそうで、こんなピンポイントなタイミングで御免与にやってくる理由なんてひとつもないわけですが、ここはまあいいかと思っちゃったな。まあいいか、そういうこともあるかと。
なんでそう思ったかというと、先週の予告にヤムが顔を出していて、昨日までに登場していなかったから今日出るんだろという、ドラマの中の出来事とは関係のない視聴体験の結果なわけですが、NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』ではあまりにもこうした「ドラマの中の出来事とは関係ないタイミング」が乱発されるので、私たちの中にもいつの間にか突飛な展開に対する受け入れ態勢ができていたということなんでしょう。慣れていくのね、自分でもわかる。
それでも、ママ(江口のりこ)が朝田パンを閉業した理由を「戦争で砂糖も小麦も手に入らんなって」と語るのは、やっぱり許容できないんですよね。朝田パンのあんぱんはガワはヤムによる自家製で、中身の餡子はダンゴ屋から仕入れているということになっていました。だから砂糖が手に入れられるかどうかはダンゴ屋の問題であって、朝田が心配するようなことじゃない。さらにいえば、朝田の家にあるパンのノウハウはヤムがレシピを残した乾パンのみであって、朝田パンがあんぱんや食パンを焼けなくなった原因はヤムという唯一の技術者がいなくなったことだった。原料は関係ないはずなんです。
これも、どこかの回で巧妙なすり替えが行われたんですよね。ヤムがいなくなってパンを焼ける人間がいないから休業したのに「小麦も手に入らなくなって」とナレーションで歴史を改竄した回があったことを覚えています。いや間違えた、巧妙じゃないな、よくいえば大胆不敵、悪く言えばウソで上書きして塗り固めた、そういうことがありました。
劇中のキャラクターがいつ、どんな理由でどんな行動を起こすのか、いつ死ぬのか、それは作り手が決めていいことです。そのルールを作るのは制作陣であって、どんな矛盾があってもそれを飲み込むかどうかは視聴者が判断すればいい。
でも、パンというものがどうやったら焼けるのか、どんな材料とどんな技術が必要なのか、その習得にどれだけの時間と労力が必要なのか、そうした事実関係は決してドラマの制作陣が捻じ曲げてはいけないものなんです。パン作りのルールは、あなた方が決めることじゃない。
速記もそう、写真もそう、ドラマで扱われるさまざまなモチーフにはすべて「現実的にはそれは無理です」という厳密なルールがあって、それを捻じ曲げた瞬間にドラマはリアリティを失うのです。速記はこんなに簡単に身に着かないし、あの時代のカメラはあんな撮り方では、あんなふうに写らない。そうした不自由さに縛られながらみんな一生懸命頭をひねってドラマを作ってると思うんだけど、『あんぱん』はそうじゃないんだよな。頭をひねらないで現実のルールを捻じ曲げることを選んでいる。そういうところがダサいと言っているんです。
第80回、振り返りましょう。
で、あなたは何をする方なの?
釜じいの葬儀を終え、一応進路を考えたっぽい感じののぶさん(今田美桜)。家族に対して、高知新報で働きながら「みんなを支える」決意を固めます。ここでは、「自分の夢より家族の幸せを選んだのぶさんエライ」という描写が行われるわけですが、そもそもの選択肢である「東京で代議士秘書」というのがどんな仕事なのか一切説明されていないので、のぶが何と何の間で悩んだのかが全然わからないんですよね。
シーンとして、代議士・鉄子(戸田恵子)が電話で編集長(ツダケン)に引き抜きのオファーをした場面はありましたが、鉄子が直接のぶを説得したくだりはひとつもありません。具体的に鉄子はどんな仕事を手伝ってほしいのか、のぶがどんな仕事と記者業を比較しているのかがわからないから「夢を捨てた」という描写に意味が宿らない。単に、これもウソで上書きされた「のぶはずっと東京に行きたかった」という子どものころからの夢を「捨てた」という雰囲気だけで押し切ろうとしている。こういうところもダサい。
そうして出社すると、今度は編集長が「のぶは記者失格だ」と言い出します。父親を亡くして喪が明けたばかりの部下に対し、この人は何を言っているの?
ここでも、編集長は「のぶの夢」に勝手に忖度して、あえて追い払うような言動をする人として描かれるわけですが、編集長がのぶに「鉄子からオファーが来たよ、どうするの?」と直接伝えて判断を仰ぐシーンがないので、のぶの決意や希望がどれくらい編集長に伝わっているのかがわからない。「のぶが自分から辞表を出したら印象が悪い」という理由だけで、編集長が「先回り忖度マン」になってしまっている。
無理やり忖度しているから、今度は編集長のセリフにリアリティがなくなります。
「のぶは一生懸命で、一生懸命になればなるほど記事が客観性を失う。記者としてそれは致命的や」
これ、記者に向いていないと判断する理由になりません。そもそも東海林がのぶをスカウトした理由はその並外れた好奇心とあつかましさ、行動力だったはずです。そうした“原石”を屋台で見つけ、磨けば光ると感じたから新聞社に呼んだはずなんです。そして入社早々、のぶの記事を一面に採用した理由も「温度がある」というものだった。
「客観性はないが温度はある」記事を書く記者がいたなら、その記事を客観性のあるものにするためにリテイクさせるのが編集長の仕事です。目の前にいる岩清水(倉悠貴)の記事について東海林は「魂がこもっていない」と説教をしていたことがありました。東海林にとって記者に求めるのはあくまで「魂」であって、客観性は教育によって身に着けていけばいいはずです。東海林、職務放棄してんのよ。
「おまえの記事の半分以上は戦災孤児、浮浪児の記事、子どもに同情する記事ばっかり書いて」
編集部にネタを持ち込むフリーライターに対してなら、この言い分も通りますが、のぶは版元所属の編集部員です。編集部員にどんな記事を作らせて、何を取材させるかを決めるのもまた編集長の仕事です。企画会議でネタ出しをさせて、客観性とおもしろさとメッセージと、そういうものを雑誌のコンセプトと照らし合わせて台割を作り、その台割に合わせて記者や編集者を動かすのは、編集長あなたの仕事なんですよ。東海林、職務放棄してんのよ。
問題なのは、東海林がそういう変なことを言っていることではなく、のぶが「編集長がそう言うならそうかも」と再び東京行きへ気持ちを傾けていくことなんです。この人が本当に信念を持って記者をやっていたなら、反発するはずなんです。
「私は自分が伝えたい主張と客観性を両立させたい」
「そのためにはあなたの教育が必要だ」
「私をもっと育てろ」
「子どもたちのために、記者としてもっと勉強して、成長したいんだ」
そういう気持ちが、のぶの中から湧いてこないことが問題なんです。
「東海林は自分の夢のために、心にもないことを言っている」と察することまでは、こいつバカだから求めないけどさ、せめて自分が選んでやってきた仕事に対してくらいは信念を持ちましょうよ。「一生懸命」とか「子どものため」とかいうセリフと、のぶの思考が矛盾してんのよ。東京行っても、どうせこいつ信念がないから、ろくな仕事できねえだろうなって思っちゃうのよ。
ヤムちゃんコーンパンパーティー
最後にヤムがコーン粉とお芋さんでパンを焼いて、みんなで食べてニッコニコ。単体で見れば、そして「高知編」のクライマックスのシーンとしては、たいへんよいと思います。おいしいものを食べてみんなでニコニコしてたら、こっちの気分もよくなるもんです。
久しぶりに下品な例えをしますけれども、キャバクラに行って美人だけど話はむちゃくちゃで全然おもしろくなくて、ドリンク入れてあげても明らかにフェイクのノンアルで一緒に酔っぱらって楽しもうという気概もなくて、終始客をナメくさって、ずっとムカついていたんですけれども、コールがかかった瞬間にペロンと股間を触られたような、そんな心境なんですよね。下品なのは私なのか『あんぱん』なのか、難しいところですね。
(文=どらまっ子AKIちゃん)