『あんぱん』第90回 脚本家と松嶋菜々子の共犯関係 このドラマは誰のために作られている?

え、便所でキスしてました?
昨日、統括さんがXで「明日の放送、必見です。」とポストしているのを見かけて、なんだろと思ってたら便所でキスしてましたよ。臭いでしょ。
でも、ここがトイレであるという断定にもちょっと疑いがあって、この長屋のトイレの屋根に穴が開いていてそこから星が見えるというセリフの後に、穴の開いた天井が出てきて、そこから星が見えている。だからここがトイレだと判断したわけです。おそらくはこの画角のすぐ外に個室があって、そこに便器がある。個室と手洗い場をひっくるめてこの人たちは「ご不浄」と呼んでいて、その手洗い場のベンチで2人がキスをした。
でも、そうだとすると、以前の嵩がびしょ濡れでトイレから帰ってきたシーンと矛盾するんです。トイレの個室の天井には穴が開いてなくて、この手洗い場の天井にだけ開いていたなら、ササっと雨を避けつつ小走りで駆け抜ければあんなに濡れることはないですよね。あの濡れ方から判断して、嵩に「雨を避けたいけど、もう用を足し始めてしまったから動けない」という状況が発生していたと推測したわけです。
だいたい、今日2人が見上げていた穴を指して「トイレの天井」とは言わないでしょう。「トイレの外の手を洗うところの天井に穴が開いている」と、嵩も千代子(戸田菜穂)も認識するはずで、だから個室の天井に穴が開いてると思ってた。でもよく考えたら、ボットン便所の天井に穴が開いていて、そこに大雨が降ったらどうなるか、ちょっと朝ごはんの時間に考えたくないですね。
というか、考えたくないよこんなこと。なんでキスシーンを見てウンコのことを考えなければならないのか。どういうつもりなのか、NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』。
第90回、振り返りましょう。
嵩、マンガの前に間取り図を描いてくれ
要するに間取り図がないんだと思うんですよね。ここに玄関があって、部屋は何畳で、キスした場所はここで、トイレはここ。トイレへの導線はこうなっていて、ここの天井に穴が開いている。
そういう間取り図がまずあって、画角によって必要なセットを作る。人物の動きはあくまで間取り図の中に限定して、ここをこう通って用を足して、ここでキスする。そういう設計ができてないから、せっかくのキスシーンがウンコの匂いに塗れたクサクサキッスになってしまうんです。
間取り図の話でいえば、ここが長屋であるということも脚本に考慮されていないと感じます。長屋なのだから、壁一枚挟んだら他人が住んでいます。確か嵩のセリフで「中目黒の長屋に空きが出た」というのがあったと思うので、基本、この長屋は埋まっているということですよね。
夜中に騒いでんじゃねーよ、メイコ大声で歌ってんじゃねーよって話です。壁ドンされちゃうし、怒鳴り込まれちゃうだろ。
そこまで言って、ようやく「え、この期に及んでキスもしてなかったの? アラサーなのに?」というラブストーリーとしての違和感を指摘できるところまでたどり着けるわけです。ツッコミどころの前に、ツッコまなきゃいけない要素が多すぎる。
そんで嵩は童貞でファーストキスかもしれないけど、のぶ(今田美桜)は次郎さんといろいろしてる経験あるよな。こんなハニカミが似合うような年齢でも経歴でもないよな。という、キスそのものの描写への気持ち悪さというか、何を感じてほしいのかよくわからなくなってしまう。
そして今週の副題である「ふたりしてあるく今がしあわせ」の「しあわせ」の話でいえば、2人でトイレの前に座って「しあわせだわ」「今がいちばんしあわせだったらイヤだわ」「ちゅっちゅだわ」とやってたわけですが、のぶが昔メイコに言ってた「この人とだったら不幸になってもいいと思える相手と結婚しなさい」というのは、どういう意図だったんだろうか。あれはどういう意図だったんだろうかという部分はほかにもたくさんあるから引っかかるだけ無駄なんですけど、ここで2人が語り合う「しあわせ」がキスシーンのための導入にしかなってないんですよね。キスありきでセリフが書かれているから、2人にとっての「しあわせ」がどんなものか伝わってこない。
キスシーンをやることが最初から決まってたとして、こんなんだったら、ガード下の往来で「2倍好き!」とか言って飛びついたときにブチューっとやっときゃよかったんじゃないかと思います。
登美子だけ、なんだか異様
蘭子(河合優実)の話を聞いて、登美子(松嶋菜々子)が涙ぐんで蘭子を抱きしめるシーンがありました。
どいつもこいつも何を考えてるかわからないドラマの中でずっとうっすら感じていたんですが、登美子というキャラクターの造形だけなんかリアルなんだよな。もちろん瞬間移動能力とかはリアルじゃないんだけど、登美子の挙動だけは一貫して魂が乗っているというか、言ってることもやってることもむちゃくちゃなんだけど、この人にはずっと体温を感じる部分がある。
脚本家が、登美子というキャラクターを気に入って書いてるんだろうなと思うんですよ。もはや史実とフィクションの間でとことん窮屈になってしまった物語の中で、登美子だけがイキイキと描ければそれでいいという、ある種の開き直りが感じられるんです。たぶん豪ちゃんが死ぬまでは蘭子にもそういう熱の入れようがあったと思うし、のぶが「先生になりたい」と言い出したときに反対する釜じいに帽子をかぶせたメイコにもそういう熱はあったと思う。そして嵩とのぶにも、幼少期にはそれがあった。
物語が進むにつれて脚本家の中でキャラクターが「整合性」という渦に飲まれて一人ひとり死んでいった。登美子という人はその「整合性」の外に置かれているというか、むしろ「整合性」が取れなくなって絡まり合った時点で、それを強引に解きほぐす役割を与えられている。いわゆるトリックスターであるがゆえに、物語から自由でいられるわけだ。
その登美子という存在が物語に上手く作用しているとも思えないけど、今日の全員集合を見てやっぱり登美子だけ異様な存在感を放っているということだけは再確認できました。
問題は、そうして強引なトリックスターを起用してまで「整合性」を取ろうとしているその目的が、のぶと嵩を魅力的に見せるためではなさそうだ、ということなんですよね。どうにかこうにか、第1話の冒頭に着地させるため、つまりはこの仕事を終わらせるためにしか見えないことなんです。
統括さんの「(キスシーンがあるから)必見です」というポストも含めて、脚本家と登美子が共犯関係を結んで統括さんたち上層部を納得させるためだけに動いている、今日はそんなふうに見えましたね。視聴者がどう思うかなんて関係なさそうなんです。公共放送なのにね。
(文=どらまっ子AKIちゃん)