『あんぱん』第123回 戦争を真面目に語った結果がこれですか ひどい話ですね

作り手側が戦争を真面目に語るというから何度でも蒸し返すけど、このドラマの世界には「チリンの鈴」という柳井嵩(北村匠海)作の絵本だかマンガだかが存在するんだよね。そんで、実名でタイトルを出すということは、その内容は実際にやなせたかし氏が書いた「チリンの鈴」と同じものなんだよね。
だとすれば、今日の嵩とのぶ(今田美桜)が朝方のベランダで語り合っていたのはどういう意味なの?
「ごめん、岩男くんのこと、今まで話せなくて」
「嵩さんはずっと、心の奥に閉じ込めてきたがやね」
私たち視聴者が知る限り、岩男くんは「チリンの鈴」のウォーのように死んでいったよね。復讐を遂げた子を決して責めず、「リンはよくやった」と言って死んでいったんです。
そして劇中の「チリンの鈴」という作品が実際の内容と同じものだとしたら、嵩は明らかに岩男の死をトレースして物語を作っている。「ずっと心の奥に閉じ込めてきた」どころじゃない、ネタにしてるんです。
劇中の柳井嵩が岩男の死をネタにしたことが許せないんじゃないんです。こうして、「戦争を真面目に描く」とか言いながら、岩男の死を物語の都合で出し入れすることが許せないんです。
柳井嵩が「チリンの鈴」を書いたとき、のぶも一緒に暮らしていたんでしょう。嵩はおそらく、岩男の死と向き合ったことでしょうし、さんざん出しゃばって「嵩さんの作品の最大の理解者」であることに固執するのぶさんのことですから、「チリンの鈴」の理解を深めるために根掘り葉掘り嵩にその話を聞いたはずです。
岩男が死んだことを絵本にしたことがある人と、その最大の理解者である妻が、こういうことを言うんですよ。
「ごめん、岩男くんのこと、今まで話せなくて」
「嵩さんはずっと、心の奥に閉じ込めてきたがやね」
ウソじゃんね。つじつまが合ってないじゃん。朝方のベランダで虚空に向かって、誰にウソをついているの?
だいたいさ、「チリンの鈴」にしろ「やさしいライオン」にしろ、本当の親を失った孤児の話なんだよ。孤児が他人に育てられて、自分が失ってしまった「家族」というものをその他人の中に見出すお話なわけですよ。
それを、登美子(松嶋菜々子)だとか岩男だとか、実の親子のエピソードにハメ込んで語ろうとするから無理が出るんです。少なくともこの2作は実の家族との「絶縁」「死別」から話が始まっている。失われた絆の物語を、NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は「絆は失われない」という解釈でもって引用しているんです。そこには明らかに、やなせたかしという作家の「家族を失った」という絶望があるはずなのに。
作品の根っこにある絶望から目をそらして、いったい何をやってるんだよ。どんな権利があって、やなせたかしという作家が作品に込めた叫びを捻じ曲げて、どっかの受け売りみたいな安っぽい解釈をでっち上げて、お茶の間にお届けしてるんだよ。恥を知れよ。
第123回、振り返りましょう。
それに比べれば
それに比べればもうね、ミュージカルのアレコレなんて気楽なものですよねえ。そりゃ作り手側も、「『あんぱん』というドラマを通じて、ミュージカルという現場の厳しさ、演出家の孤独、脚本家のストレス、制作の金銭的苦悩、チケットノルマに追われる役者たちの困惑といった悲惨な状況をどうしても伝えなきゃならない」なんて言ってないから、最初から適当にやるつもりだったんでしょう。
のぶさん衣装部だそうですよ。メイコ(原菜乃華)は誰かの代わりにステージで歌うんでしょう。嵩はあんまり現場に来れないみたいだし、役者もチケットを手売りするつもりはないみたい。
のぶと嵩のサイケな衣装も気持ち悪いし、たくちゃん(ミセス)がのぶと2人きりで歌を聞かせるシーンなんて意味がわからな過ぎてまた不倫を疑ってしまうし、古川琴音のいかにも「意味ありげです」という顔はいったい何なのでしょう。意味ありげな顔をさせとけば伏線になるとでも思ってるのでしょうか。
あと、のぶはヤムのパンを集客に使うみたいだけど、「何者にもなれなかった」から続くこの成果主義思想は小松暢さんのものなのか中園さんのものなのか、どっちなのかね。どっちにしろ、あんまり気持ちのいいもんじゃないよね。
(文=どらまっ子AKIちゃん)