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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『べらぼう』放送談義35

『べらぼう』蔦重が支払った歌麿の春画は700万円! そして“殿”の身代わりとして裁かれた春町の最期

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『べらぼう』で歌麿を演じる染谷将太(写真:Getty Imagesより)
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 前回の『べらぼう』も様々な変化がありました。もっともポジティブな変化は、洗濯女の「きよ(藤間爽子さん)」と再会し、世帯を持つことにした歌麿(染谷将太さん)でしょうか。ドラマの歌麿は幼少期に実母とその愛人の男から虐待され、性愛に対して拒絶感を持つようになった複雑なキャラクターとして描かれてきました。

耕書堂出版物の絶版

「きよ」は耳が聞こえないのですが、唇の動きで相手の言葉を読み取っているようです。お金をもらって他人の洗い物を引き受ける「洗濯女」のほかに、売春もやっているという設定でしたが、これも江戸時代にはよくある話でした。

 とくに独身で働く江戸時代の女性の大半が、「裏メニュー」として売春をせざるをえない状況があったのです。たとえば、ドラマでは蔦重と再会した直後の歌麿も売春しており、彼の馴染みの通い客の尼さんがいましたよね――あれを演じていたのは作家の岩井志麻子先生だったそうですけど、ああいう女性でさえ、御札などを売り歩きながら自分の身体も売っていたわけで、売春・買春が江戸時代の日常生活には染み込んでしまっていたのでした。

 ドラマの歌麿は複雑な生育環境もあって、ポジティブに性愛を受け入れることができなくなり、売春していたわけですが、歌麿の根深い心の傷が「きよ」との交流の中で癒やされ、前々から蔦重(横浜流星さん)から依頼されていた「笑い絵」――つまり春画もついに完成できたのですね。

 事情を誰よりも知る蔦重は大いに喜び、祝儀もかねて100両(!)もの大金を歌麿にはずみ、蔦屋耕書堂の女将である「てい(橋本愛さん)」から激詰めされていました。江戸時代中後期の1両=現在の7万円と仮定すると、実に700万円。春画集1冊のギャラとしては、たしかに破格です……。

 それにしてもさすがNHK、画面には春画のあぶない部分は絶対に映さないものの、ギリギリを攻めましたね。

 あれらの絵画は、のちに歌麿の最高傑作とされる『歌まくら』という春画集となりました。ドラマの歌麿は「脈略がないんだけどよ」とテレていましたが、実物はそれどころではないビザール(珍奇)趣味のデパートメントストアというべきシロモノで、カッパに襲われる女性や、全身毛だらけの外国人の男女のまぐわいなど、「なんでコレを描こうと思った!?」とツッコミを入れずにはいられない絵が多数含まれています。

 ちなみに、歌麿の春画は豪華な紙にきらびやかな絵の具を使い、それは贅沢に刷り上げられました。店頭には並べることができず、蔦屋の店の奥で、富裕層のお得意さまにだけ、ひっそりと対面販売されたのでした。

 当時、すでに松平定信(井上祐貴さん)による好色本や贅沢本の禁止が江戸市中に言い渡され、歌麿の『歌まくら』はその両方に引っかかる、文字通りの「あぶな絵(=春画の異称)」だったからです。

 次回以降のドラマでは、前回のラストで「てい」が出版に猛反対し、「あまりにもおふざけが過ぎます!」と難色を示していた黄表紙が、「ふんどし(=松平定信)の言ってることなんざ、守れるかよ~」と、イケイケの蔦重の方針で印刷され、それが運命を分ける展開になりそうです。

 江戸時代の黄表紙は、発売以前に「お上(=行政)」のチェックをうける必要はありませんでした。なぜなら大半の黄表紙はお正月にまとめて出版され、販売開始されるのですが、その大半は数カ月もすれば忘れ去られる一過性のものだったからです。

 ゆえに政治批判を含んでいても、「お上」による出版差し止め処置などは行われないのが通例だったのですね。

 ドラマの松平定信は黄表紙マニアで、「恋川春町神」とか「蔦重大明神」などと発言するあたりも含め、現代のオタクそのものとして描かれていますが、史実の松平はこの手のサブカル文書など毛嫌いし、見ようともしないタイプの人物だったのではないか、と思われます。

 それなのになぜ松平が、彼の政権発足以前から蔦屋(耕書堂)が発売していた朋誠堂喜三二(尾美としのりさん)の『文武二道万石通』(天明8年・1788年)、そして恋川春町(岡山天音さん)の『鸚鵡返文武二道』(天明9年/寛政元年・1789年)など、ドラマに登場した2作などの黄表紙を次々に絶版させていったのでしょうか。

 簡単にいうと、それは人気が出すぎてしまったからのようです。

 前回も触れましたが、近年の研究によると、『文武二道万石通』の絶版は「天明八(1788)年後半から寛政元(1789)年三月頃までのあいだ」。

 そして『鸚鵡返文武二道』の絶版は「寛政元年3月頃までのあいだ」だったという説が出ているのですが(佐藤至子著『江戸の出版統制 弾圧に翻弄された戯作者たち』吉川弘文館)、通常はお正月に販売開始し、そのまま多くは売り切れしだい販売終了……という黄表紙のあり方とは異なりました。ドラマでも描かれたようにこれらの2作品は異常人気を博し、何回も増刷されたのです。

 その都度、蔦重は「お上」が嫌がる要素……たとえば江戸城の重要政治家がモデルの登場人物であるとわかる要素(たとえばキャラの名前や、衣服に見られる家紋など)を修正させるなどのマイナーチェンジは加えたのですが、政権・政策を揶揄して笑うという部分は改めなかったのですね。

恋川春町の死因は一体…

 松平定信は今風にいうと「エゴサ」に熱心でした。インターネットのなかった当時でも、部下を市中に配置し、自身の世評を含めたあれこれを聞き書きさせた『よしの冊子』なる書物を作らせたほどです。

 同書によると、現時点ではドラマ未登場の黄表紙で、やはり大ヒット作となった『天下一面鏡梅鉢』(天明9年/寛政元年・1789年)が、あまりに人気だったので、蔦屋の店頭だけではなく、物売りが書物を袋詰めにして、「あけていはれぬこんたんの書物じや(寛政元年四月)」……超訳すれば、「全編が袋とじみたいな内容の本ですよ~!」と思わせぶりなことを言いながら、街頭販売までしていたようです。

 この記述から読み取れるのは、お正月の発売開始から、「お上」から最低でも4カ月程度はお目溢しをいただいていた、という事実です。その後、詳しい時期はやはり不明ながら『天下一面鏡梅鉢』にも、『文武二道万石通』、『鸚鵡返文武二道』に続いて絶版命令が出されたのですが、松平による出版弾圧の基準は「内容」というより「売れ行き」だったことは興味深いです。

 たとえば『天下一面鏡梅鉢』と同時期に発売された、版元(=出版者)不明の黄表紙『太平権現鎮座始』という作品があるのですが、こちらには蔦屋が出している黄表紙同様に「幕府が問題視する要素はそろっているようにも思われるが、この作品が絶版になったという伝聞はない(前掲書)」のでした。

 同書は、蔦屋の政治批判黄表紙の売れ行きに乗っかろうとした同業他社のプロジェクトなのですが、売れなかったから首の皮一枚つながって生き残れたという不幸中の幸いがあったのです。

 お上による絶版騒ぎで憂き目を見るのは版元だけでなく、作者も同じでした。『文武二道万石通』の著者・朋誠堂喜三二は上司から怒られて、黄表紙作家としては絶筆に追い込まれました。

 さらに『鸚鵡返文武二道』の著者・恋川春町(本名・倉橋格、くらはしいたる)は、倉橋家の記録によると寛政元年7月7日の日付で突然の病死です。自殺説もあります。

 ドラマでは駿河小島藩の「年寄本役」――いわゆる家老職を120石というけっして高くはない禄高にせよ、つとめていた恋川春町こと倉橋格がお仕えする「殿」こと松平信義(林家正蔵さん)が登場していましたよね。

 このタイミングでの殿の登場から読み取れることは、当時の世間に、実は松平信義が『鸚鵡返文武二道』の本当の作者で、それを恋川春町の名前で出させたという噂があって、ただの噂にせよ、主君の評判を貶めてしまった春町が自分の命で責任を取らざるをえなくなった……という逸話がドラマでも取り上げられるのでしょう。次回予告にも切腹シーンが見られましたよね……。

 しかし史実の蔦重は、お抱えの作家たちが大ダメージを被ってもなお、怪気炎をあげつづけ、執筆を半強制的に続けさせた悪徳プロデューサーであったようです。おそらく、史実の蔦重は「お上」の統制と戦う自分に酔っていたのでしょうが、彼のどうしようもないあたりを、ドラマではどのように視聴者から共感を引き出せるように描いていくのか……今後の『べらぼう』に注目が集まります。

大奥・高岳との因縁は…

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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堀江宏樹
最終更新:2025/09/21 12:00