『べらぼう』歌麿が愛した「きよ」の正体、そして長谷川平蔵が作った人足寄場の真実

前回(第38回)の『べらぼう』は、妻「きよ」(藤間爽子さん)が瘡毒(梅毒)で亡くなったにもかかわらず、彼女の死を受け入れられない歌麿(染谷将太さん)が日々変わりゆく彼女の死に顔を見つめ、描き続けるというシーンがクライマックスでしたね。泣かされました。
19世紀末フランスの画家で、「印象派」の名前の由来にもなった作品で知られるクロード・モネも愛妻・カミーユが亡くなったときには、彼女の死に顔を素描し続けるという常人に理解しがたい追悼を示したことで有名ですが、それを思い出してしまいました。ドラマの歌麿の場合は、自分を見ていないと癇癪を起こすようになった妻をなだめようと始めた行為ですが、史実のモネと共通するのは、描かずにはいられない画家の「業」だったと思います。
しかし、弟子から見ればそういう師匠の姿は狂気でしかなく、蔦重(横浜流星さん)を呼びにいくのは当然でしょう。「きよ」の遺体を運びださせた蔦重に怒りをぶつける歌麿でしたが、本当に彼が怒っていたのは、やっと手に入れた小さな幸せすら自分から奪い去っていく運命に対してだったはずです。
また、歌麿が素の感情をぶつけられる相手は蔦重だけ、というドラマの描写からは、最近、「表現の自由の闘士」を通り越し、「パワハラの権化」となりつつある蔦重のマイナスイメージを補って余るものがありました。かつて『平清盛』でも秋口くらいから主人公・清盛(松山ケンイチさん)が闇落ちし、「悪役」になっていく姿が描かれ、乏しかった視聴率がさらにやせ細ったのを今でも覚えていますから、どうか『べらぼう』は同じ道を進まないでほしい……と願うばかりです。
さて、今回は歌麿の「妻」についてお話したいと思います。
これまでとくに触れずに見守り続けてきましたが、史実の歌麿の経歴には謎が多く、実はドラマのように結婚していたかどうかも定説がありません。
ただドラマの歌麿の妻が「きよ」という名前になった理由は、当時は浅草にあった専光寺(関東大震災で被災し、現在は世田谷区に移転)に歌麿の墓が存在し、墓石に「理清信女」という女性の戒名が刻まれているからでしょう。
彼女は寛政2年(1790年)8月26日に亡くなったとされ、それも現在のドラマの時間軸と合致するため、この「理清信女」こそ「きよ」のモデルだと思われます
しかし「理清信女」については、ドラマとは異なり、歌麿の母親ではないかと推測されることが多いようです。歌麿はあまり私生活を他人と共有したがらなかった人のようで、絵師・歌麿のすごさは語り継がれた一方、文化3年(1806年)に彼が亡くなると、歌麿の私生活については諸説入り乱れる状態になってしまいました。専光寺内の歌麿の墓石も場所がわからなくなり、再発見されたのが大正時代だったのは有名な話です。
天保6年(1835年)に、晩年の曲亭馬琴(滝沢馬琴、ドラマでは津田健次郎さん)が記した回想録『後の為の記』には「歌麿には妻もなく、子もなし」とあります。
しかし、天保15年(1844年)の『増補浮世絵類考』によると、「二世恋川春町」なる人物が「故歌麿ガ妻ニ入夫セシ人」として紹介されているのです。
歌麿の生年は正確にはわかっていませんが、宝暦3年(1753年)頃とされており、それによると彼は推定53歳で亡くなったので、氏名不詳の歌麿未亡人は、夫よりかなり年下だったのかもしれませんね。また、何人目かの妻だった可能性もあります。
いずれにせよ、江戸時代において家名や家業、財産を守っていくための「ビジネス婚」は(それこそドラマの蔦重夫妻のように)頻出した現象だったので、曲亭馬琴の知る限りでは歌麿は独身だったけど、別の筋から「ビジネス婚」の相手はいたという報告があっても、おかしくない気もします。
ただ、史実の歌麿はパートナー関係の情報をあまり公開しておらず、同時代の関係者の間でも謎が多かったことだけは確かといえるでしょう。
それでは史実の歌麿に、ドラマの「きよ」のような名実ともにパートナーといえる女性はいなかったのでしょうか。
「きよ」のモデルは女弟子「千代」だった?
これについては、歌麿の春画集『笑上戸(わらいじょうご)』の記述に「夫(=歌麿)の下絵につまのさいしき(原文ママ)」とあり、これが千代という歌麿の女弟子を指しているのでは、という指摘があります。彼女が「喜多川千代女」などの筆名で絵師デビューした痕跡はなく、歌麿のアシスタントに終始したようです。
以上を筆者なりにまとめると、史実の歌麿と彼の母親は関係良好で、母が亡くなると歌麿は墓石を建てて供養した。歌麿の結婚問題については、正式な妻ではなかったかもしれないが、千代という女弟子に慕われ、画業と私生活をサポートされていた……あたりが真実に近いのではないでしょうか。
この場合、『増補浮世絵類考』に見られる歌麿未亡人も、千代である確率が高いと思われます。いずれにせよ歌麿という人物は、相思相愛のパートナーがいたタイプではなさそうですが……。
次回のあらすじとして「憔悴していた歌麿(染谷将太)は、つよ(高岡早紀)と江戸を離れる」とあるのですが、蔦重の義兄弟の歌麿を「歌ちゃん」と呼ぶ「つよ」は、歌麿にとっても「義母」みたいなもんなので、蔦重としては「つよ」に歌麿のケアを任せ、旅に出したというあたりでしょう。史実では確認できませんが、天涯孤独の歌麿にもちゃんと「家族」はいたと描く、いい筋書きだと思いました。
さて、次回以降のドラマでも描かれていくであろう、長谷川平蔵こと長谷川宣以(はせがわのぶため、中村隼人さん)と人足寄場(にんそくよせば)についても少しお話しておきたいと思います。
史実では、江戸時代に設置された臨時の警察組織といえる「火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)」の職務をこなしていた旗本・長谷川宣以が、天明8年(1788年)、増加の一方だった無宿人(=ホームレス)対策として、松平定信(井上祐貴さん)に無宿人や、軽犯罪者の更生施設を隅田川に浮かぶ石川島に作りたいと訴え出たのがきっかけです。
史実の長谷川の人物については、江戸城内での評価は微妙でしたが(『よしの冊子』)、彼の実務能力を高く評価していた松平による大抜擢で実現したのが人足寄場だったといえると思います。
石川島の周囲を土砂で埋め立てた土地が活用されたのですが、その時、使われた中には寛政元年(1789年)以降に松平によって開始された、隅田川の治水事業で出てきた土砂も含まれました。
具体的には、隅田川に浮かぶ歓楽街になっていた中洲を破却したときに出た土砂ですね。松平定信にしてみれば、密売春が横行する歓楽街を破却し、そこから1.5キロ~2キロほど離れた石川島に元犯罪者や浮浪者を集め、更生施設を作るのは彼の考える「世直し計画」の理想に合致していたと思われます。
ドラマでは、山東京伝の大ヒット黄表紙『心学早染草』に由来する「悪玉提灯」を掲げた犯罪者が送られたという描かれ方でしたよね。たしかに同作は数百部売れたら御の字とされた黄表紙業界の常識を遥かに超え、累計1万部も売り上げたメガヒット作で、実際に江戸の不良少年たちの間で「悪玉提灯」を掲げ、夜遊びする姿は見られたのですけど、彼らが人足寄場に送られたとするのはさすがにフィクションです。
というのも当時、農村生活を続けることができず、江戸に集中した元農民=無宿人は数万人にも及んでおり、石川島の更生施設こと人足寄場は、社会から爪弾きにされてしまった人々に技能を与え、社会復帰させる理想こそ立派ですし、収容者の食事はもちろん、お風呂などの衛生面も配慮されていましたが、100人程度の規模で始まった零細プロジェクトでした。ごく一部の無宿人しか入れない施設だったのですね。
この頃の人足寄場はいわば強制収容所みたいな感じでしたが、後には希望者も入れるようになり、人数も600名程度にまで増えたこともあったそうです。人足寄場で規定の3年間を頑張れば、手に職がついて食っていけるようになるわけですが、逃亡したら死刑でしたから……。
この人足寄場の造営・運営に対し、松平定信から長谷川平蔵に与えられたのは初年度500両の現金と、5000俵の米だけ。ドラマでも「500両ぽっち」と資金不足を嘆く長谷川の姿がありましたが、翌年からはさらに300両と3000俵に手当は減らされたので、長谷川は金銀に関する相場で儲け、収容された人々が作った質の良い紙――「島紙」の名で呼ばれた特産品で得た利益も投入し、なんとか運営を続けたようです。
長谷川平蔵と松平定信の関係については研究者の間でも定説がないようで、今後、ドラマでどのように描かれるかが注目されます。
(文=堀江宏樹)