『べらぼう』イケオジ・ツダケンの活躍と京伝の美声の理由、そして茶屋・看板娘と江戸の“推し文化”

前回(第40回)の『べらぼう』は「寛政の改革」による倹約令の嵐にもめげず、なんとか日々を楽しく暮らそうとしている町人たちの姿が印象に残りました。
そしていつ、どんな形で出てくるか……と本連載で注目してきたツダケンこと津田健次郎さん演じる曲亭馬琴先生(ドラマでは滝沢瑣吉)の初登場回でもありました。
人気声優で、最近は俳優としての活動も目立つ「イケオジ」ツダケンさんですが、『べらぼう』にはやたらと通るデカい声と、デカい態度の老け顔(!)の青年としての登場でした。
人気芸人のくっきー!さん演じる勝川春朗(のちの葛飾北斎)と馬琴先生の絡みも、普通ならなかなか実現しない組み合わせということもあり、目が引き寄せられました。
史実の蔦重(横浜流星さん)の周りで見られたであろう、独特の輝きを持つ人々の姿を思わせる一幕だった気がします。これが芸人や声優といった一般ドラマではあまり見ない顔ぶれを『べらぼう』が積極的に起用している理由でしょうね。
先日、青年時代の北斎を柳楽優弥さんがものすごいインパクトで演じていた映画『HOKUSAI』を見た筆者としては、『べらぼう』勝川春朗こと葛飾北斎役は誰がやるんだろう……と興味津々だったのですが、くっきー!さんの起用は想定外でした。でも、くっきー!さんみたいな北斎ならホントに長生きして、雅号を「画狂老人卍」に変更する未来までありありと見えるような気がしたので、これはこれで大アリの抜擢だと思ってしまいました。
ちなみに滝沢馬琴の文章に葛飾北斎が挿絵を寄せるようになり、両者が本格的なタッグを組んだのは(蔦重死後の)享和4年(1804年)以降なのですが、この時期、二人は“同棲生活”をしています。
ドラマにもちょっと出てきた男色とかという話ではなく、北斎は平均1日あたり1枚かそれ以上のペースで原画を仕上げねばならず、打ち合わせ時間の短縮目的だったようですけど、「ツダケン馬琴」と「くっきー!北斎」の“同棲”は、恐ろしくて想像できない……ような……。
まぁそれはともかく、馬琴先生はドラマでは、山東京伝(古川雄大さん)の妻・菊(望海風斗さん)から面倒を見てやってくれと頼まれ、「滝沢瑣吉」は手代(てだい、販売アシスタント)として蔦屋耕書堂の雇われになったという描かれ方でしたよね。
しかし、史実では馬琴先生の本名は「滝沢興邦(おきくに)」です。当時、すでに武士としては開店休業状態というか、脱サラしていました。それゆえ食い扶持を稼ぐ必要があります。しかし現代風にいうなら、彼は商業誌デビューを果たしたものの仕事が安定せず、食っていけない作家だったのですね。ゆえに実質的な師匠である山東京伝の紹介で、蔦屋耕書堂で働くことになったそうです。
ドラマの馬琴先生は武士の身分にこだわりがある一方、比較的フランクな人物でもあるわけですが、史実の曲亭馬琴は商人「なんか」の奉公人になることがものすごく嫌でたまらず、それゆえ「さきち」という平民風のビジネスネームを自虐的に名乗っていたそうです。
ちなみに蔦重から、とある商人の家に婿入りしろと勧められると、「武士の私にそんな身分違いの結婚を勧めるとは!!」とブチギレし、蔦屋耕書堂を飛び出していったのが史実の曲亭馬琴の人柄でした。
また、ドラマでは「手鎖五十日」の実刑判決を受けて依頼、執筆をしぶる山東京伝の代作を馬琴先生がしたという描かれ方でしたが、こちらも概ね史実です。実際は、馬琴だけでなく、何人かの先生が集まってなんとか穴を開けずに済んだという話で、それほど山東京伝はお上に罰せられたことがショックで、ノイローゼ状態だったともいわれていますね。
しかし、この時期の山東京伝が江戸の中心地・京橋に煙草や煙管、そしてそれらの隣にその名も「読書丸」といって滋養強壮を謳った(あやしげな)薬なども並べた一種のタレントショップを開店させていたのも史実です。
京伝の美声の理由は……
ドラマでは菊の三味線に合わせ、自作の小唄(『すがほ』)を歌い踊る山東京伝ワンマンショーが見られましたよね。ドラマの山東京伝は「真人間になる」なんていっていましたが、彼がこういう華やかな世界でしか輝けない人間であるということの何よりの証しのように見えました。
山東京伝役の古川雄大さんはミュージカル俳優としても活動中で、菊を演じる望海さんと共演している『エリザベート』では、今や実質的な主役といえるトート役で知られます。ドラマでも『すがほ』を口ずさみながらのなめらかな動きに魅せられてしまいましたね。史実の京伝先生も書画会といって、ファンたちを一堂に集め、そこで色紙などに揮毫――望まれた言葉やイラストをサラサラと書き入れる有料“ファンサ”で大人気を博したのでした。
こうして開店にこぎつけた店では、山東京伝が蔦屋で出した大ヒット作『江戸生艶気樺焼』の主人公・艶二郎のキャラクターイラストが(彼自身の顔の代わりに)描き入れられた扇子、短冊などのグッズも販売していたようです。
当時の「作家」たちは俸禄(固定給)ありの武士たちが、余技として執筆しているケースが圧倒的に多く、いくら裕福にせよ質屋のせがれだった山東京伝のような専業作家は稀だったのですね。
しかし、かつて築いた作家・山東京伝としての名声を背景に“タレントショップ”を自営できるようになり、その収入が結構あったので、安心して全年齢向けの「まっとうな作品」の執筆もできるようになったのではないでしょうか。
そういう商人のたくましい経済活動がほかにも垣間見えたのが、馬琴先生が蔦重を連れていった看板娘がいるお店です。ドラマでは、不況と倹約で吉原にも行けない庶民たちが美人に会いたくなったら、そういう店に並ぶという描かれ方でした。
これが史実か気になった方もいるでしょうが、ドラマのように不況・好況に関係なく、明和年間――つまりドラマの第1回が明和9年(1772年)でしたので、その頃にはすでに「明和三美人」などといって、この手の看板娘がいるお店が江戸中の注目を浴びていました。
一番有名なのは、「笠森お仙」でしょうか。江戸・谷中の笠森稲荷(現在の東京都台東区)の門前の水茶屋「鍵屋」の店主の娘で美少女だったお仙目当てに、江戸中の人々(とりわけ男性)が通ってきたのです。
しかし、お仙のような看板娘がいない茶屋でのお茶代は5、6文(現在の125円〜150円)程度だったのに、お仙の「鍵屋」のようなお店のお茶代は数十文(現在の500円~750円)。つまり4、5倍もかかったそうです。なかにはお仙の気を惹きたくて、100文も渡して帰る客もいたとか。“推し文化”の源流を見る思いですね。
自販機やコンビニが存在しなかった江戸時代、普通の茶屋がそれらに該当。「鍵屋」みたいなタイプのお店を現代風に例えるなら、美男美女が笑顔で接客してくれるけど、割高なスタバ……みたいな感じでしょうか。
そういう街中の美人たちをモデルに、栃木から江戸に戻った喜多川歌麿(染谷将太さん)が、蔦重プロデュースの連作浮世絵シリーズにチャレンジするシーンもよかったですね。歌麿の内面の葛藤を演じきった染谷将太さん、素晴らしい役者さんです。とりわけ目の演技がすごくよかった。
ちなみに江戸で流行していた相学(観相学)の知見をベースにした歌麿の連作『婦人相学十躰』はセールス好評でしたが、相学者からのクレームもすごく、『婦女人相十品』に改名した後、比較的短期で終了してしまいました。
しかし、歌麿の描く美少女・美女たちには、浮世絵の絵柄の流行史を書き替えるほどのインパクトがありました。それこそ「笠森お仙」を超スレンダーな美少女として描き、大人気を博した鈴木春信の絵柄が確実に古くなり、その代わりにふっくらした歌麿の女たちが人気を呼ぶようになったのです。「寛政の改革」で痛めつけられながらも、庶民文化は着々と前進し続けていたのでした。
(文=堀江宏樹)
