『べらぼう』徳川宗睦による“一芝居”の真相と朝廷との確執で失脚する定信

前回(第41回)の『べらぼう』では、これまでコミカルな印象だった蔦重(横浜流星さん)の母「つよ」(高岡早紀さん)の人間性に惹かれるものがありました。
「つよ」の初登場は第26回(7月6日放送)で、その時から蔦重は「つよ」をババア呼ばわりしていましたね。蔦重としては、母親は色に狂った末、幼い自分を捨てて江戸から去った……と信じさせられていたのですが、「つよ」から伝えられたのは、蔦重の父親がタチの悪い借金を背負ったので偽装離婚をして、江戸を去らなくてはいけなくなった。あんたも吉原に置いていくことで債権者からマークされないようにした、という意外な真実でした。
蔦重が「つよ」の過去を受け入れ、はじめて「おっかさん」と呼ぶシーンには泣かされました。しかし前回は「つよ」がこめかみを押さえ、頭痛を訴えている場面がとても目立ったので、蔦重が尾張の書物問屋に出かけている間に母子の永遠の別れとならないことを祈ります……。
「おっかさん」といえば、「つよ」がまるで実の母親のように、天涯孤独の歌麿(染谷将太さん)のケアをしているシーンもよかったですね。ドラマの歌麿は蔦重への恋心を誰にも明かしていなかったのですが、それを「つよ」は見抜いており、歌麿の気も知らずに無神経に振る舞う蔦重のことを「あんな朴念仁に産んじまって(ごめんね)」などと謝っていました。
前回の歌麿は、KYすぎる滝沢瑣吉(のちの曲亭馬琴、津田健次郎さん)に絡まれ、面倒くさそうでした。歌麿にとっては想い人である蔦重が横にいるのに、瑣吉から「あんたは男色の相」などと面と向かって指摘されたにもかかわらず、歌麿は「オレぁ両刀だ」などと堂々と切り返したので、蔦重は相変わらず何も気づかぬまま……。
しかしそれを見ていた「つよ」が「瑣吉は店に出せないし、よそに置いて原稿だけ書かせておけばいいんだよ!」などと蔦重に言いつけていました。ああいう感じでドラマの瑣吉=馬琴先生は蔦屋耕書堂を追われることになるのでしょうか……。
少々気になったのが、喜多川歌麿を天下の名絵師として江戸中に売り出すべく、蔦屋の店頭に太田光さん演じる人相学の先生を呼んだというシーンです。
史実では歌麿の「婦人相学十躰」のセールスは大好調だったけど、江戸市中の人相学者たちから「ぜんぜん人相学の内容を反映していない!」とすごいクレームの嵐をくらった結果、タイトルから「人相学」の文字を抜いて、「婦女人相十品」として再スタートしたという経緯がありました。
太田さんのあえて空気を読まない芸風を考えると、今回も憎まれ役として「こんな美人画は人相学じゃない!」とか怒り出す演技が見られるのかと思っていたら、普通に広告代理店に頼まれ、イベントに駆り出されたなんかの先生みたいなおとなしさで、拍子抜けしてしまいました。
本格的に「詰んでいく」松平定信
御三家筆頭の尾張藩主・徳川宗睦(むねちか、榎木孝明さん)が、世話になった松平定信(井上祐貴さん)のために一芝居打つという場面についても補足しておきます。そもそもあの場面の背景がよくわからなかったという声が筆者の周辺ではありました。
徳川宗睦の治世は、藩の債務総額が22万5500両を超えるという大赤字が記録された苦難の時代でした。債務総額というのは、「以前から積み重なった借金の元金だけでそれだけあった」ということです。
借金でクビが回らなくなった宗睦は債権者に対し、これまで利息として支払ってきた6万5700両余を、元金から差し引く――つまり借金を勝手に減額するという暴挙で対応せざるをえなくなりました。
尾張藩に貸し付けした商人たちは利息で儲けるため、金を貸したわけです。それなのに宗睦は一方的に元金を減らしただけでなく、現金(金貨・銀貨)での返済が困難なので、尾張藩が収入源の米を換金するために発行している米切手を渡すことで、返済の代わりにしようとしました。
「尾張藩中興の祖」とされる宗睦ですが、これは悪手だったと思います。
米切手とは「信頼」を背景に、将来米と交換できる証券であり、基本的には米を確保したい業者などが各地の藩から購入するものです。たしかに、何らかの理由でその藩の米に人気が集まると、米切手の価値も上昇し、買ったときの価値より高くなることがよくありましたので、投機商品としての側面もありました。
ところが当時の尾張藩は借金が返せないからといって、部分的にせよ踏み倒し、返済代わりに米切手を押し付けるような「信頼」に欠ける政体でしたので、米切手の値段も額面より下がるし、尾張藩の威光も失せて、新たな貸付も受けられなくなる……という最悪の結果となりました。
要するに史実の宗睦は「経済オンチ」だったのです(それしか破産を食い止める手段がなかったともいえますが)。また、それをドラマでは米切手の発行が「財政再建策になる」と、宗睦と定信の二人が信じ、実行してみたというように描いていたので、彼らが二人とも市場原理と民心――とくに資金提供者の心理をまったく理解していない経済オンチだと暗示しているシーンだった……はず。
来週から本格的に松平定信が「詰んでいく」姿が描かれるようですが、ドラマ最後の「紀行」のコーナーで京都御所が映った際に松平定信の失脚に関係している事件として紹介された「尊号一件」についても触れておきますね。
ときの帝は光格天皇で、この方はいわゆる傍系出身の帝でした。
戦国時代以降、江戸時代になっても天皇家の財政状態は最悪で、皇太子以外の皇子たちはほぼ全員が出家せざるをえない状況がありました。しかし、徳川家でさえ将軍位を継ぐべき男子を確保するべく設けられた御三家がなんとか機能しているにもかかわらず、天皇家の三宮家(伏見宮、桂宮、有栖川宮)は血縁が遠くなりすぎており、そのことが問題視され、宝永7年(1710年)、つまり6代将軍・徳川家宣の時代に儒学者・新井白石の建言によって4つ目の世襲親王家・閑院宮家が創設されていたのです。
光格天皇はその閑院宮家の出身で、最初は師仁(もろひと)親王と名乗っていました。
しかし先代の帝・後桃園天皇に皇子がおらず、欣子(よしこ)内親王一人を残し、22歳で早逝なさったので、閑院宮家の師仁親王が後を継いで即位し、光格天皇となったのでした。ちなみに即位時に諱も師仁から兼仁(ともひと)に変えています。
ですが、傍系から帝になるということは余人が想像する以上に権威の不足に悩まされることらしく、光格天皇はご自身のカリスマを補完することに熱心でした。
光格天皇の中宮(皇后)は欣子内親王です。また、光格天皇は文化人として知られ、伝統の復興にも非常に熱心でした。そのひとつが、「紀行」でも紹介された平安時代の様式による京都御所の造営だったのですね。
光格天皇はご自身の父宮・典仁(すけひと)親王にも、太上天皇の尊号を与えようとしました。当時の朝廷は幕府が出した「禁中並公家諸法度」に縛られているので、この件も幕府に何度も交渉したものの、松平定信からその都度ハネ付けられてしまったのです。松平定信からすれば「天皇経験者じゃないんだから、太上天皇は無理」という正論なのですが、そこは譲歩しておいたほうがよかったんじゃない……?という一幕ではありました。
松平定信はたしかに謹厳実直な人物だったのでしょうが、それだけでは現在の首相に相当するような老中首座は続けられなかったということなのでしょうね。
(文=堀江宏樹)
