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歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『べらぼう』放送談義43

『べらぼう』吉原の不景気ぶりと公家も食した“吉原料理”、そして源内生存説というミステリー

『べらぼう』吉原の不景気ぶりと公家も食した“吉原料理”、そして源内生存説というミステリーの画像1
『べらぼう』でていを演じる橋本愛(写真:サイゾー)

 前回(第43回)の『べらぼう』では、蔦重(横浜流星さん)の妻の「てい」(橋本愛さん)が死産してしまったと思うしかないシーンがありました。

『べらぼう』海外渡航と帰国は死罪

 蔦重に実子がいたかを明確と語る史料は存在しません。二代目蔦重は、蔦屋耕書堂で長年番頭を勤めた勇助という人物なのですが、彼が蔦重の婿養子だと説明されている史料はあり、このため蔦重には娘がいたか、あるいは蔦屋を支えてくれた番頭の勇助に後を継いでもらうため、彼の妻にするべく養女をもらった……と考えたほうがよいのかには想像の余地があるのです。

 結局、ドラマでは蔦重に実子はおらず、養女をもらって、番頭と結婚させた説を採るようですね。

 それにしても歌麿(染谷将太さん)は妻の「きよ」(藤間爽子さん)の死後、蔦重への思いが再燃していたところに「てい」の妊娠が発覚し、明らかに傷ついているふうでした。

 また前回では太客の足が遠のき、ただの岡場所みたいになってしまった不景気の吉原を盛り上げるべく蔦重に駆り出されていた歌麿が、遊女やさまざまな人々のふとした表情に目を留め、それを後日描いて蔦重に見せるシーンがありました。

 しかもテーマは「恋心」……歌麿の気持ちを知っているわれわれには「あっ」となる場面なのですが、蔦重は他人の自分への好意にだけはとんと疎くて、まったく気づきもせず。まぁ、これは「大河ドラマ」の歴代主人公に課された掟じみた設定でもあるのですけど、そういうところに加え、以前に西村屋から指摘されていた、歌麿の名前より蔦屋の屋号のほうが上に書かれている問題などについても咎められた蔦重は、歌麿から絶縁を伝えられてショックを隠せない様子でしたね。

 吉原の不景気ですが、史実ではどうだったのでしょうか。

 たしかにドラマで描かれている18世紀後半~幕末にかけての吉原は、慢性的な不況に悩まされていたとされています。以前のドラマでも御公儀(=幕府)のお達しで、美人画に遊女以外の名前を入れてはいけない(積極的なプロモーションは許さない)とされていましたけど、吉原遊女であったところで、公然と宣伝ができるわけではありませんでしたから。

 幕末期の嘉永4年(1851年)には、吉原の名店のひとつに数えられる万字屋が、処分覚悟で「御徳用遊女」の文字が躍る客寄せチラシを江戸市中にばらまかせ、怒った役人によって10日の営業停止処分を言い渡されています。10日の営業停止をどう見るかですが、案外軽かったというしかありません。

 享保7年(1722年)、吉原の町年寄(=街の代表者)を勤めた奈良屋という女郎屋に興味深い幕府権力との癒着記録があるのです。前々回のドラマで、松平定信(井上祐貴さん)が武家伝奏――朝廷と幕府の間を結ぶ公家たちの態度に激怒するシーンがあったと思いますが、京都から江戸に下向した公家たちの接待に使われた料理は、吉原の料亭の料理人が出張して振る舞った、そしてその経費は吉原の奈良屋が……もっというと奈良屋所属の遊女たちが負担していたというのですね。

 常にそういうことだったというわけでもなさそうですが、ドラマのお公家さんたちが口にしたお料理も実は“吉原の味”だった可能性はありますし、前回は能楽の面(おもて)のコレクションを前にした一橋治済(生田斗真さん)の姿が描かれましたけど、「江戸城本丸での能楽会で出されるお弁当を、吉原の料亭・喜の字屋からのケータリングした」という記録もあります。ゆえにドラマでは能楽好きの一橋治済だけでなく、吉原を目の敵にしていた松平定信なども、史実では“吉原の味”に親しんでいた可能性があるわけです(以上、くわしくは拙著『三大遊郭』幻冬舎を御覧ください)。

 そしておそらくこれと似たようなことが、ずっと律儀に続けられていたからこそ、吉原がビラ配りなどの反則事項を犯したところで、罰が軽く済んだという結果につながっていると筆者は読みます。

 ちなみに吉原の街全体でいうと、そこまで金回りが悪くはなかったのかも……という説もあるのでご紹介しておきます。

平賀源内生存説の歴史的背景

 ドラマでは、安達祐実さん演じる女性経営者「りつ」が女郎屋から芸者屋「大黒屋」に商売替えしたという描かれ方でしたが、その「大黒屋」の安政5年(1858年)の帳簿によれば、芸者2人が4時間のお座敷接待をした「だけ」なのに、その御花代が吉原の中の上~中の中レベルの遊女の揚代とほぼ同額だったのです。

――これは吉原の芸者が本来なら禁じられている密売春を行っていたということなのでしょうね。ドラマの「りつ」の性格なら、女将としてこういう筋の通らないことは許さなかったでしょうけれど、吉原内の芸者(屋)でさえ、そうやって稼ぐしかないほど追い詰められていたということの証しでもあります。ちなみに安政5年当時の大黒屋が得た総額3500両のうち、支出が2980両。そして支出全体のうち6分の1がお役人への「心付け」でした(『日本花街史』)。

 前回のドラマでは松平定信が家斉将軍(城桧吏さん)たちに騙されるような形で解任させられ、「寛政の改革」の終了が描かれたわけですが、その後でさえ「楽しみ」のためにパーッとお金を使える人の数は往事に比べ、少ないままだったのです。

 ちなみにこの時代、文字通りの岡場所だった深川ではお茶屋内に隠し部屋がひそかに増築されたりしていたようです。座敷の畳をめくると、現れるのはなんと秘密の出入り口。ここからハシゴで下ってたどり着く部屋で、芸者とイチャイチャできる裏メニューまでありました。

 ここまで秘密基地めいた“魔改造茶屋”は少なかったでしょうけど、そこまでしなくても「酔っちゃったあ~」という演技で客を帰さない「突っ伏し芸者」(=酔ったフリして机に突っ伏す芸者)も多発していたので、まぁ、当時の“夜職”のみなさんも生き残るために大変だったのでしょうね。

――と、ついつい吉原の内実について語りすぎてしまいましたが、前回の最後に大きな凧を背負った“旅がらす”が出てきましたよね。あらすじでは蔦屋耕書堂で働くために上京してきた貞一(演じているのはミュージカル俳優の井上芳雄さん)は、あの凧を蔦重に見せて「これは平賀源内(安田顕さん)が作ったものだ」と話すそうです。これが平賀源内生存説、源内先生の再登場などにもつながるのでしょうか(源内先生が東洲斎写楽になるなんて筋書きだったら笑いますけど)……。

 貞一とは、重田(七郎)貞一のことで、のちに『東海道中膝栗毛』で大ヒット作家になる十返舎一九の本名だと思われます。

 あの凧は相良凧(さがらだこ)と呼ばれ、田沼意次(渡辺謙さん)が領主を勤めていた遠江国・相良(現在の静岡県牧之原市)に伝わる工芸品です。そして同地には(何らかの手段で江戸の牢から抜け出た)平賀源内が田沼家を頼り、江戸から落ち延びてきていた伝承もあるのでした。

 平賀源内がかつて留学していた長崎で見た凧をベースに作った相良凧を広めた……というのですね。牧之原市内の浄心寺には平賀源内の墓――とされる別名男性の墓まであるのですが、そこから出土した――とされる壺があり、これが「源内焼」だといわれていたため、この壺を地元有志は平賀源内生存説の有力物証として「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京)に持ち込んだところ、鑑定士から「ニセモノ」と一蹴されてしまったそうです。

 壺を抱えて静岡に戻るまでのお通夜のような雰囲気は想像に余りますが、『べらぼう』は嘘を真(まこと)として描けるフィクションですので、なんとか良い形でオチが付くことを祈っています。

朝廷との確執で失脚する定信

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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堀江宏樹
最終更新:2025/11/16 12:00