粗品はなぜ“無言の指摘”をしたのか? timelesz・篠塚によるギャグのパクリ騒動が浮き彫りにした問題点

男性アイドルグループ・timeleszの篠塚大輝が、11月19日放送『めざましテレビ』(フジテレビ系)で披露した、童謡「大きな古時計」の替え歌ギャグ「今は もう動かない おじいさんにトドメ」に批判の声が相次いでいる。
SNSでは、ギャグ内容に対し「朝の番組にはふさわしくない」などの感想が続出し、炎上状態に。ちなみに同ギャグは篠塚が自作であることを、『めざましテレビ』側が放送前日の公式Xのアカウントで“予告”。しかし実際はお笑い芸人の鼻矢印永井の持ちギャグと酷似したものだったことから、より厳しい見方がされることになった。
ちなみにギャグのパクリ疑惑を真っ先に指摘したのが、霜降り明星の粗品だ。粗品は2023年4月、自身も出演したYouTubeチャンネルのオーディション企画「お笑い自慢怪奇編#5」で永井の元ネタ「今は もう動かない おじいちゃんにトドメ」を目の当たりにしていた。そういったことから粗品は自身のXで、永井の元ネタ動画を投稿して“無言の指摘”をおこなった。
ちなみに粗品は、ギャグや芸のパクリに対して非常に厳しい姿勢を示す芸人だ。4月28日のYouTubeチャンネル内のコーナー「一人賛否」では、中山功太の持ち芸「逆言葉」を藤本敏史(FUJIWARA)がパクっていることに言及。「逆言葉のやつ、やめや? あれ中山功太さんの作品やねんから。何か自分のやつのように」「あれ、功太さんの発明やから。対義語のネタ。知らんわけないよな? お前芸人やねんから。功太さんのパクリやめてください、フジモン。功太さんの方が100倍オモロいです」と注意喚起をしていた。
粗品の注意喚起からは、芸人が自分で生み出した芸やネタは最大限にリスペクトされるべきだというメッセージが感じられる。それはお笑いだけではなくクリエイティブ全般に言えることだろう。お笑い、音楽など多彩に活動する粗品だからこそ、藤本のパクリは許せなかったはず。それは今回の篠塚によるギャグのパクリも同様のことが言えそうだ。
実際に篠塚のギャグ炎上は、彼のその行為のみならず、一部で「ギャグそのものの評価」にも移り変わってしまった部分がある。19日付『Yahoo!ニュース エキスパート』の記事「timelesz篠塚大輝がめざましテレビで披露した一発ギャグが炎上。TVで不謹慎ネタはもう使えない?」(篠原修司氏)では、「端的に言うと「面白くないうえに不謹慎だから炎上した」に尽きる」と記述された。篠塚のやり方がおもしろくないのか、それともギャグそのものがおもしろくないのかは触れられていないが、これは視聴者の素直な感想に他ならない。つまり総じて「おもしろくない」という印象を与えてしまったのだ。
このようにパクリは、元ネタの扱われ方次第で原作者の立場や評価にも影響が及ぶ可能性がある。しかも今回の場合は永井自身、番組には一切関わっておらず、登場もしていない。それにもかかわらず「不謹慎」「おもしろくない」といった印象が、篠塚を通して元ネタにまで向けられている点は、騒動の特徴のひとつと言える。
今回の背景には、作品が原作者とは異なる場所で使われたことで評価が変化する「第三者による消費」の問題がある。ギャグには、世間に広く浸透して「誰が使っても伝わる段階」と、まだ創作者本人の使い方が印象を左右する「定着前の段階」がある。今回のように、まだ知られていないギャグが別の文脈で使用されると、「誰が言ったか」の要素が評価に大きく影響し、本来の意図とは異なる受け取られ方になりやすい。
しかも篠塚は今をときめく超人気グループのメンバーであり、現時点では永井よりも圧倒的な影響力と支持を持つ。そんな篠塚が、完成度が不十分なまま安易にギャグをパクると、元ネタそのものの印象に結びつきかねない。永井自身の意図とは無関係の評価が付与される状況が生まれる。この構造がはっきりと現れてしまった。
また、芸人のギャグは言葉だけで成立するものではない。演者、場所、番組の流れ、観客の空気など複数の条件も揃って効果が発揮される場合がある。永井が芸人に囲まれた現場や舞台で披露する場合と、篠塚が朝の情報番組で使う場合とでは、前提条件が大きく異なる。前提の違いがそのまま反応の違いにつながるが、その点が十分に共有されなかったことで、永井のギャグ自体が一部で不本意な評価対象になった。
さらに、SNSではフレーズ単体が切り取られて拡散されやすい仕組みがある。複数の文脈が失われた状態で意見が広がると、誤解が生まれる可能性が高くなる。今回も、番組内の流れや篠塚の意図が十分に伝わらないまま、「ギャグそのもの」への評価にも出てしまった。
この一連の流れを見ると、パクリであってもその表現と使用者が分離されづらい情報環境の問題が浮かび上がる。創作者がコントロールできない場所で作品が雑に扱われ、その扱われ方が創作者に返ってくる構造は、お笑いに限らず現代のさまざまな領域に見られる。
本来、篠塚の行為と永井の創作物は分けて考えるべき事柄である。篠塚が番組でどのように表現したかは、篠塚の問題。永井のギャグがどう評価されるべきかは、彼自身の活動のなかで積み上げられるべき部分。しかし両者が混ざってしまうと、適切な評価が難しくなってしまう。なにより「不謹慎」「おもしろくない」との烙印を押された「今は もう動かない おじいちゃんにトドメ」というギャグを今後、永井は使用しづらくなったのは確かだろう。芸人にとって財産であるギャグを、第三者の使い方で喪失するのはあまりに不憫ではないだろうか。
この騒動の批判はそれほど長く続かず、気づかない間に沈静化するとみられる。結果として“トドメ”を刺されたのは、まったくなにもしていない永井になってしまうのではないだろうか。
(文=田辺ユウキ)