CYZO ONLINE > 芸能の記事一覧 > 蔦屋耕書時代堂以降の斎藤十郎兵衛の活躍ぶり
歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『べらぼう』放送談義47

『べらぼう』写楽の正体・斎藤十郎兵衛がまさかの一橋治済に! 蔦屋耕書時代堂以降の十郎兵衛の“活躍ぶりと生活ぶり”

『べらぼう』写楽の正体・斎藤十郎兵衛がまさかの一橋治済に! 蔦屋耕書時代堂以降の十郎兵衛の“活躍ぶりと生活ぶり”の画像1
『べらぼう』で一橋治済と斎藤十郎兵衛を演じる生田斗真(写真:サイゾー)

 前回(第47回)の『べらぼう』のハイライトは、斎藤十郎兵衛(生田斗真さん/二役)のまさかの登場シーンでした。

“写楽複数作家説”の信憑性

 ドラマでは、東洲斎写楽=複数アーティストによるプロジェクトネーム説を採っていたため、完全に油断していたからですが、本当に『増補浮世絵類考』の「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿洲侯の能役者也」――阿波藩(徳島藩)蜂須賀家お抱えの能楽師という設定での登場で、しかも一橋治済役の生田斗真さんの二役という点でダブルの衝撃でした。

 最終的には治済が暗殺させた(ということにドラマではなっている)10代将軍・家治(眞島秀和さん)の嫡男・家基(奥智哉さん)の「呪い」が気になる11代将軍・家斉(城桧吏さん)まで巻き込み、家治の弟で、現在は御三卿の清水家当主・重好(落合モトキさん)の茶室で睡眠薬を一服盛られ、治済は昏倒。

 そして時代劇では不審死を遂げた遺体を目立たぬように運び出すときに使われる定番の小道具・長持(ながもち)に入れられ、阿波の孤島に島流しにされてしまったのでした。

 当地で治済が「私は上様の父親だぞ」と主張すればするほど、「こいつ、アタマがおかしいから問題起こして流されてきたんだろうな……」としか思われないはずで(江戸時代における島流しは、死罪の一段階手前の重い刑罰)、これまで高い身分と悪巧みの能力だけで渡世してきた彼にとっては、その2つが使えないハードな後半生が待っているのでしょうね。

 脚本の森下佳子さんの常人離れした想像力が爆発した内容で、ドラマとしては「面白い」んだけど、ケレン味100%のトンデモ展開の連続で、現実が黄表紙の世界に侵食されたようで、めまいがしました。

 さらに次回予告で次週が最終回だと聞かされ、それもすっかり「寝耳に水」でした。みなさんもそうだったのではないでしょうか。『べらぼう』、ここまでとてつもない作品になるとは想像さえしませんでした。

 さて、『増補浮世絵類考』など江戸時代の書物で写楽の正体だと名指しされている史実の斎藤十郎兵衛は、その後、どうなってしまったのでしょう?

 平成9年(1997年)、かつては築地本願寺の一院として築地に所在し、現在は埼玉県越谷市に移転した法光寺で、斎藤十郎兵衛の忌日の情報をふくむ過去帳が発見されたそうです。

 それによると、斎藤が亡くなったのは文政3年(1820年)3月7日。八丁堀地蔵橋にあった「阿州殿御内 斎藤十郎兵衛事 行年五十八歳千住にて火葬――とあるため、斎藤はあくまで江戸在住のまま、58歳(数え年)で亡くなったことがわかります。そこから逆算すると、斎藤は宝暦11年(1761年)生まれだと考えられるのです(参考までに一橋治済についても整理しておくと、彼が生まれたのは宝暦元年・1751年11月、亡くなったのは文政10年・1827年2月ですので、治済は斎藤より10歳年上で、7年長生きしたわけですね)。

 斎藤十郎兵衛がその正体だと言われる東洲斎写楽の活動時期は、寛政6年(1794年)5月~寛政7年(1795年)春頃にあたり、このときの斎藤は数えで33~34歳だったことがわかります。

 斎藤が写楽だったとして、絵師デビューまでの蔦重(横浜流星さん)と斎藤との接点は不明ではありますが、推測は可能です。蔦屋耕書堂では、江戸時代に町人の間で大流行した富本節という三味線音楽の一流派の公式テキストに相当する「富本節正本」も出版していたという話はドラマにも登場しました。金と時間に余裕のある旦那や奥方の間で、芸事(げいごと)を嗜むケースが増えてきていたのです。

 そして蔦屋耕書堂では、謡(うたい)を学ぶ人のための手引書も発行していました。当時、能楽関係は、あの一橋治済も熱中していたようにステイタスの高い習い事として人気がありました。ちなみに謡とは能楽を構成する3つの要素――囃子(楽器演奏)、舞(踊り)、謡(朗唱・歌唱)のひとつです。

 その手の出版事業の中で蔦重は斎藤十郎兵衛と知り合い、彼が独特の絵を描いていることに気づき、写楽としてデビューさせることにした……もしくは彼が考えている複数名の絵師たちによる“東洲斎写楽プロジェクト”のメインペインターとして抜擢したのではないでしょうか。

 しかし、斎藤十郎兵衛は能役者という芸能人でありながら、武士の身分持ちなのですね。『蜂須賀家無足以下分限帳』などの史料には斎藤十郎兵衛の給料が「五人判金弐枚」と明記されています(藍染研究家・後藤捷一氏の研究)。

 これは基本給が「五人扶持」――20~25石程度の米を支給され、そこに年に2両ほどの現金が御手元金としてもらえるという意味です。能役者として舞台出演するたびに、ボーナスがもらえたでしょうから、だいたい今の年収で300万円といったところでしょうか(1石=1両で、当時の1両=現在の7万円として換算)。

 藩邸内に暮らすなら家賃はタダですが、物価指数が当時から高かった江戸の町のど真ん中・八丁堀で豊かに生活できるほどではなかったはずです。

 斎藤十郎兵衛の年収が同時代人の間ではどの程度だったかについて、さらに検討してみましょうか。

リクエストの多い蔦重、嫌気が差した写楽

 天明年間、久保田藩(現在の秋田県)の藩士にして、江戸留守居役を勤めていた時代の朋誠堂喜三二こと平沢常富(尾美としのりさん)は120石取りでした。また松平定信(井上祐貴さん)に著作内容が咎められ、変死する直前の駿河小島藩士(現在の静岡県)で、やはり江戸勤めだった倉橋格こと恋川春町(岡山天音さん)にも、朋誠堂喜三二とほぼ同額の収入がありました。

 斎藤十郎兵衛の収入は、比較的高所得だった二人の作家に比べると、能役者としての出演時のボーナス込みでも5分の1程度でしょうか。

 しかしここで2点、確認しておきましょう。

 先述の法光寺の過去帳には、斎藤十郎兵衛の戒名として「釈大乗院覚雲居士」というかなり立派で格調高い戒名が記されている点。

 さらに斎藤十郎兵衛の過去帳がある法光寺には、彼の親戚筋の斎藤家の過去帳の情報が残っており、それによると十郎兵衛の親戚は能役者から旗本にまで出世した家だった点。

――以上を加味して推察すると、斎藤十郎兵衛は、実際の年収以上の「ステイタス」を意識した生活をせざるをえなかったように思われてならないのですね。

 そういうステイタス重視の斎藤が、本当に庶民の芸術である歌舞伎にハマって、役者絵など描いてくれるものかと疑問かもしれません。が、逆に家族や親戚から求められる高めのステイタスには資金不足だからこそ、「趣味と実益を両立」などと甘いセリフを吐き、黄金をチラつかせた蔦重からのスカウトには乗らざるをえなかったのではないか……と考えてしまう筆者でした。

 能役者としての斎藤家が、どの能楽の流派と関係が深かったのかは想像するしかありませんが、あくまで大名・蜂須賀家のお抱え役者という「看板」があるとはいえ、室町将軍・足利義満をも魅了した世阿弥の子孫である観世宗家など能楽界のサラブレッドたちに比べればだいぶ地味な存在だったはずです。町方の能役者よりは格段に上ではあったはずですが……。

 30代はじめという斎藤の年齢を考えても、なにか先祖代々の家の芸以外の自分の可能性がないものかを試したくなっていてもおかしくはなく、蔦重にそそのかされるがまま覆面絵師としてデビュー。しかし、蔦重のリクエストは際限なく、その割にギャラも大したことがないので、すっかり商業出版がイヤになって1年たらずで辞めてしまったという「ストーリー」が見えてくる気がするのです。

 そんな斎藤ですが、その後は大手版元と組むことはなかったものの、絵師として引退はしていなかったのかもしれません。というのも衝撃の写楽デビューから約24年後の文政元年(1818)年成立で、江戸時代の文化人名鑑に相当する『諸家人名江戸方角分』という史料には、その時点でもなお「八丁堀地蔵橋付近に写楽斎を名乗る浮世絵師が住んでいた」という内容が含まれているのです(九州大学・中野三敏教授による研究)。

 ここから想像をたくましくすると、斎藤は商業出版の作家はすぐに引退したが、その後も長い間、個人からの注文を受けてそれを描いて納品する、元・商業作家で現・同人作家というような存在だったのではないでしょうか。

『べらぼう』のようなド派手な結末にはどうあがいてもたどり着けませんが、史料の行間を読み解くと、斎藤十郎兵衛の人生が想像できて興味深いものですね。

家斉の子どもたちはなぜ多産多死?

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

X:@horiehiroki

堀江宏樹
最終更新:2025/12/14 12:00