『べらぼう』喜多川歌麿のその後とお上の逆鱗に触れた“秀吉タブー”の作品とは

今回は、『べらぼう』最終回後の喜多川歌麿(ドラマでは染谷将太さん、以下同)についてのお話です。
蔦屋重三郎(横浜流星さん)と喜多川歌麿は名実ともに義兄弟です。ドラマでは蔦重の実母の「つよ」(高岡早紀さん)が勘ぐっていたように「義兄弟」と聞けば、衆道(同性愛)を思わせる強い絆で結ばれていたと思われるかもしれませんが、蔦重が惚れ込んで義兄弟にした男性は歌麿以外にも何人かいます。
ドラマでは、蔦重とはさほど懇意な間柄としては描かれなかった志水燕十(加藤虎ノ介さん)もその一人でした。志水はもともと絵師でしたが、蔦重は志水の戯作者としての才能に惚れ込み、義兄弟の契りを交わし、『身貌大通神畧縁記(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)』なる黄表紙を執筆させています。このとき、挿絵を描いたのが大々的にデビューする前の喜多川歌麿(忍岡歌麿名義)です。歌麿にとって燕十は兄弟子で、彼らはともに鳥山石燕(片岡鶴太郎さん)の門下生でした。
またドラマでは、蔦重による政権批判を含む戯作が松平定信の怒りを買い、蔦屋耕書堂に「身上半減」の罰が下った事件も描かれましたが、このとき朋誠堂喜三二(尾美としのりさん)の『文武二道万石通』、そして恋川春町(岡山天音さん)の『鸚鵡返文武二道』の2作と並んで大ヒットした黄表紙『天下一面鏡梅鉢(てんかいちめんかがみのうめばち)』の作者・唐来三和(山口森広さん)も蔦重が「惚れて」、義兄弟になった人物です。蔦重は才能を認めた相手と義兄弟になることで、名実ともに距離を詰めることがお好きだったといえるでしょう。
しかし喜多川歌麿には志水燕十や唐来三和よりも、格段に深い関係性が読み取れる気がします。歌麿は絵師としてデビューする以前の経歴が明らかではなく、出身地なども不明な「謎の男」なのですが、蔦重はそんな歌麿に彼のファミリーネーム(家名)である「喜多川」を与えているのでした。江戸時代の庶民たちにも、非公式の場では家名を名乗ることが黙認されており、蔦重は吉原で茶屋「蔦屋」などを営んでいた喜多川氏の養子となっていたのです。
それほどに蔦重は歌麿の腕を見込み、義兄弟どころか、家族同然の絆を育んでいたのですが、蔦重からの愛と信頼が過密になりすぎて、もっというと全てにおいて「兄貴ヅラ」したがる蔦重に嫌気が差し、やがて歌麿は彼の支配から逃げ出したのではないかと筆者には思われます。
両者の決裂時期や理由は定かではありませんが、史実では両者の関係が修復することなくの寛政9年(1797年)、蔦重は脚気で亡くなってしまいました。ドラマでは写楽複数作者説が採られ、歌麿も写楽の一人という描かれ方でしたが、史実では蔦重と歌麿の復縁がうまくいかなかった理由のひとつが、「無名の新人」東洲斎写楽の電撃デビューと、異様なまでの持ち上げられ方だったと思われてならないのです。
約10カ月のうちに全四期=四回にわけて発売された写楽の浮世絵のうち、最初の2回までのクオリティが3回以降に落ちてしまうと同時に、勝川派(葛飾北斎も学んだ絵の流派)など“プロ”として教育を受けた者の手癖が強く見られるようになるという事実は以前のコラムでもお話しましたよね。
要するに写楽の黄金期である1~2期の作品は、“プロ”の目には“素人絵”にしか見えない出来だったはずで、史実の歌麿は蚊帳の外に追いやられたまま、眉をひそめて「こんなヤツを今の蔦重は重用しているのか」と嘆いていたのではないでしょうか。
しかしその後、蔦重が亡くなり、最大で40もの版元と仕事をする売れっ子の喜多川歌麿だけが残るのですが、歌麿の作品はマンネリズムに陥っていき、最終的には文化元年(1804年)に発表した『太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)』が幕府から睨まれ、手鎖五十日の刑となってしまったのでした。
豊臣家の人物の実名表記に激怒した徳川幕府
それにしても『太閤五妻洛東遊観之図』とは、そこまで問題視される作品だったのでしょうか?
現代人の目には豊臣秀吉こと「太閤秀吉公」が、自分の右に正室の「おね(画中では『北の政所』表記)」ではなく「淀殿」を座らせ、左には冠を捧げ持たせた「石田三成」をはべらせている構図が印象的な作品としか映らないはずです。
しかしここからもわかるように当時、禁止されていた歴史上の人物の実名を「太閤秀吉公」のように堂々と表記しているルール違反が見られるのですね。
この画は『絵本太閤記』という、大坂在住の読本作家・武内確斎(たけうち・かくさい)のエンタメ色がある歴史小説の関連イラストです。こういうエンタメ系出版物やお芝居では「羽柴秀吉」という実名表記は御法度。「真柴久吉」などの表記でボカすのが、当時のルールだったのですが、それを大坂の版元や作者は無視し、当初は完全に歴史書風に「羽柴秀吉」の実名で出版されていたのです。
特に江戸時代初期、徳川幕府は豊臣家の復権を警戒していました。秀吉の墓所であった京都の豊国神社と、そこに祀られる「神」である秀吉に対し、徳川家康は「豊国大明神」の神号を剥奪。さらに豊国神社の建物をも破壊しようとしていたところ、秀吉未亡人のおね(当時・高台院)から「崩れ次第になし給はれ」(『東照宮御実記付録』)――人為的に壊すのではなく、廃れるまま、再建は不可というあたりで勘弁してください……と頼み込まれ、その要求を呑んでやったという過去があるのです。
大坂の作者と版元にとって、遠い江戸の幕府が、豊臣家の人物の実名表記に激怒するのは考えにくかったのかもしれません。しかし徳川幕府の人気が低迷し、その屋台骨が揺らぎ始めたのが『べらぼう』とその後の時代ですから、相対的に秀吉の人気が復活し、それが『絵本太閤記』のヒットの潜在的な原因でした。よほど無謀か、あるいは本当に幕府の警戒に気づかなかったのならウカツとしかいえません。
『絵本太閤記』がなぜ売れたかというと、それは一般人でも読みこなせる秀吉の伝記が限定的だったからです。もともと秀吉時代を知る古老からの聞き書きを集め、信長の旧臣に仕えていた川角三郎右衛門という武士の手による『川角太閤記(かわすみたいこうき)』が江戸初期に成立していましたが、面白みが少ないんですね。
ゆえにそれに逸話を付け加え、やや読みやすくしたのが医師・小瀬甫庵(おぜほあん)による『甫庵太閤記』です。しかし、それでもこの2冊はインテリ向けの書物だったので、それらをさらに大衆向けに再構成し、寛政9年(1797年)以降、5年かけ断続的に大坂で出版されたのが読本『絵本太閤記』でした。
「エンタメ系」ですが史実は押さえ、当初は実名表記だったのを途中から仮名(かめい)にするなど配慮したにもかかわらず、文化元年(1804年)になって突然『絵本太閤記』は絶版処分を受けました。版元から版木が没収――つまり再販不能に追い込まれ、現本を持っているだけでも処分という最大級の禁書となってしまい、江戸で出版された関連画にすぎない歌麿(など複数の画家)の作品にも発禁と版木没収処分が課されました。歌麿など作り手にも手鎖五十日の刑が課されるという経緯となったのです。
このとき、もし蔦重がまだ生きていたら、この『絵本太閤記』の関連プロジェクトに歌麿を駆り出すことはあり得たのでしょうか? 史実の蔦重は松坂の本居宣長(北村一輝さん)を訪ねた際、幕府にツッコミされそうな危なっかしい箇所のカット指示をして、本居から信頼を勝ち得ているので、あえて自分の「義兄弟」――それもファミリーネームまで同じ本当の兄弟のような歌麿には危ない橋を渡らせなかったのではないか……という想像をしてしまう筆者です。
ちなみに『太閤五妻洛東遊観之図』は三枚組の錦絵なのですが、蔦屋耕書堂はまったく関与していないのが印象的です。初代蔦重の死後、蔦屋耕書堂を引き継いだ元・番頭の勇助こと二代目蔦重は、先代好みの危ないビジネスからは身を引いたとよくいわれます。実際に『太閤五妻洛東遊観之図』には蔦屋ではなく、「入山形(いりやまがた)」に「仁」の印が特徴の加賀屋吉兵衛(かがや・きちべい)の版元印が見られます。
そして初代・蔦重の死後、歌麿は蔦屋耕書堂との関係を復活させていたのですが、二代目・蔦重は、歌麿が仕事の方向性で迷ったときに相談できる相手ではなかった気がします。結局、手鎖五十日になった山東京伝(古川雄大さん)があっさりと戯作者の筆を折ったように、歌麿も絵師としての勢いを失い、処罰から約2年後の文化3年(1806年)に亡くなってしまったのでした。
最後に東洲斎写楽の「その後」について、補足しておきますね。前回のコラムでは、注文を受けて描く同人絵師になっていたのではないかと仮定しましたが、平成20年(2008年)、ギリシャ国立コルフ・アジア美術館の所蔵品に、寛政11年(1799年)に上演された歌舞伎のワンシーンを描いた写楽の肉筆画が発見されたのだそうです。
これは蔦重が亡くなってから2年後の話ですから、ほそぼそと斎藤十郎兵衛(と思しき人物、生田斗真さん)が写楽としての活動を続けていたことがわかります。肉筆画を見る限り、プロの絵師の線とは異質の「描いては止まり、また描いては止まる」といったカクカクとした線が特徴だそうで、そういう斎藤による原画を、プロたちが修正したものが東洲斎写楽の浮世絵だったのではないでしょうか。
またドラマで「東洲斎」が「斎藤十郎兵衛」のアナグラム(言葉遊び)説が採り上げられましたが、あれも学習院大学名誉教授・小林忠さんのお説がオリジナルみたいですね。
これらは筆者の旧作『乙女の美術史 日本編』(KADOKAWA)でもお話していたことなのですが、すっかり記憶から飛んでいました(笑)。本当に(自作も含め)過去や先人からは教えられることばかりです……。
(文=堀江宏樹)
