『豊臣兄弟!』清須へ向かう三人…兄弟の実父・実母が史実で歩んだ“道”とは?

早いもので『豊臣兄弟!』も2回目の放送を終えました。予想していた通り、ジワジワと戦国特有の残酷な描写を多く、深くしていく作戦のようですね。
第2回は貧しい百姓の息子である主人公・小一郎(仲野太賀さん/のちの豊臣秀長。「小一郎」という名前に史実性はありませんが、今後、この手の説明は省略します)が、お侍の娘である「直」(白石聖さん)と身分差を乗り越え、婚約した(?)という部分で終わりました。今回のコラムは、こういうドラマの設定にどの程度、“史実性”があるのかをお話したいと思います。
――とはいえ、豊臣(羽柴)秀長という人物だけに特化して書かれた研究書は、『豊臣兄弟!』の制作発表後、ドラマでも考証を務める黒田基樹・柴裕之の両先生が出版なさるまで、本当に一冊も存在しない状況が続いていました。
明治〜昭和期の歴史学者・渡辺世祐の著作内で、典拠不明のまま示されていた「厳格な秀吉に欠けがちな部分を補う」「温厚」な人格者=秀長という「定義」だけが長年流用されている状態だったのです。
読者の皆さんは前回のラストあたり……小一郎が兄・藤吉郎(池松壮亮さん/のちの豊臣秀吉)と故郷の村を旅立ち、これから清須に向かうぞという夜明けのシーンで、二人が出世の目標を語る中で登場した「国持ち大名」というキーワードを記憶しておられるでしょうか。
天正元年(1573年)、彼ら兄弟はまだ「国持ち大名」ーーとまではいかないまでも「城持ち大名」にまでは成り上がりました(詳細は機会を改めてお話します)。
そしてこれ以前の彼らの人生について、とくに秀長の一次資料は驚くほど存在せず、ほとんど何も――青年期については皆目わからないのでした。本作の脚本家・八津弘幸先生は、江戸時代以降、世間に流通している「貧乏人の小倅たちが天下人にまで成り上がった」という定番のストーリーを裏切らず、それをなぞって展開していくという作戦みたいですね。
しかし、考証者である黒田・柴両先生によると、秀吉・秀長兄弟は単純明快なサクセスストーリーを歩めたわけではないことがわかります。
黒田・柴両先生の著作では、秀吉・秀長は「そこまで貧農の生まれではないが、結果として貧困家庭の出身」という一見矛盾した生育環境で育ったとされています。
兄弟の両親は、もとは上層農民の生まれだったそうです。上層農民と聞いてもピンと来ないかもしれませんが、ドラマの藤吉郎から見れば、かなり格上のお侍家庭のお姫様といった描かれ方の「寧々(ねね)」(浜辺美波さん)というキャラクターがいますよね。
彼女はのちに藤吉郎と結婚するのですが、寧々は黒田基樹先生の綿密な系図調査によると、藤吉郎の遠い親戚にあたるのです。藤吉郎の叔母(母親「なか(坂井真紀さん)」の妹)が嫁いだ先の「養女」が「浅野寧々」。なぜよく言われるように「杉原」でもなく「木下」でもなく、「浅野寧々」なのかはおいおいご説明しますが、どうでしょうか、イメージと異なり驚かれると思います。
まとめると、もともと親戚ネットワークの中にいた寧々が、秀吉の大出世に伴い、彼に見合った格式を持つ浅野家の養女となって結婚したというのが、最新の学説。貧乏な秀吉とお嬢様の寧々が身分差を乗り越えて恋愛結婚をしたという「定説」は否定されているのです。
しかし、それならばなぜ兄弟の実家があそこまでボロボロなのか、疑問を感じて当然です。ドラマ第1回で「父親が武士になろうとして失敗し、没落した」と短い説明だけで済まされてしまいましたが、おそらく史実もそうだったのだろうと筆者は考えます。
ここで想像するしかないのは、兄弟の実家の没落理由まで、黒田・柴両先生の著作では明示されていないからです。
史料が存在しないテーマについて歴史学者は沈黙せざるをえません。それでも筆者は史料の行間を空想するのが仕事の歴史エッセイストなので、想像の翼を広げさせていただくと、おそらく史実の兄弟にとって、父親は非常にビミョーな存在だったはずです。
ドラマでも早逝したという設定の藤吉郎=秀吉の父(氏名不詳)ですが、史実の秀吉からも明らかに軽視されていたと読める「事実」があるんですね。
秀吉の父は戦のせいで没落したのか?
天正16年(1588年)頃、秀吉は京都・大徳寺の敷地内に、母の健康と長命を祈願するための位牌所として天瑞寺を造営させました。しかし、そこに祀られている位牌にはなぜか父親の名前がなく、母を唯一の先祖にして、家の祖とみなしているのです。ゆえに諸説ありますが、秀吉にとって父親とは生家を没落させ、家族たちを苦労させた張本人だったからではないかと筆者は考えるのです。
黒田・柴両先生の著作によると、秀吉の父は織田家(大和守家説が有力)の臨時雇い(=在郷被官)だったそうです。この当時、武士と農民の境界線は曖昧でした。武士の仕事も手伝えることがあるのが上層農民の特徴なのですね。
この当時、武士は合戦費用や武具調達を基本的に自腹で賄う必要がありました。それを土地持ちの裕福な上層農民が融資してやり、相互に安全を確保し合っていたと考えられます。つまり、ドラマのように村が野盗に襲われても、在郷の武士たちが、特に彼らと縁戚関係のある上層農民がいる村のことは、優先的に守るという共生関係があったのです。
もともと秀吉の父母は武士や、そして村で暮らすほかの貧しい農民に対し、そういう役割を担えるだけの裕福な家系出身者でした。それゆえ史実の秀吉の母の妹も、有力な武士の家系に嫁げたのでしょう。
しかし、史実でもおそらく秀吉の父は(ドラマで描かれたように)上昇願望が強すぎて、これが一家にとっては仇となってしまった……そのように筆者は考えます。
秀吉の父は上層農民として武士をサポートするのではなく、正規の武士になろうともがく中で、とある合戦用に、先祖伝来の田畑を担保に巨額を融資したが、何らかの理由で見返りが得られなかった。そうやって、家の財政基盤を傾けてしまったのではないでしょうか。
当時の農民は所有する土地にちなんだ苗字を名乗っていましたが、失地と同時に苗字を名乗る権利も消失し、没落したというのが史実の「豊臣兄弟」の幼年期~青年期なのでしょう。兄弟は、生家の社会的ステイタスを回復させようと必死にもがくしかなかったのですが、それも後世から眺めれば、彼らが貧農から武士、そして「天下人」にまで成り上がったという「サクセスストーリー」として解釈されたのだと思われます。
偶然と必然が交錯する『豊臣兄弟!』
兄弟の父親の人生についても定説はありません。氏名不詳の「生みの父」と、筑阿弥もしくは竹阿弥と呼ばれる「養父」――つまり母親の再婚相手がいたという「二人の父」説と、氏名不詳の「生みの父」が何らかの理由で出家し、その後、茶坊主などとして織田家に仕えようとしていたのではという「同一人物」説の2つがあります。「◎阿弥」という名前は、歴史的文脈では「阿弥号」と呼ばれ、貴人に仕える芸能者特有の名前だからです(そして芸能者の立場は『べらぼう』の時にもお話しましたが、高くはありません)。
この2説ですと、筆者は後者を採ります。
兄弟の父は実家の土地を担保に借金をし、その回収ができぬまま没落したという説と、出家した説の「相性」がよいからですね。
当時、借金取りをまくため、出家して大寺院に逃げ込むことができました。おそらく藤吉郎・小一郎の父親もそうやって家族を放置し、にわか坊主として寺でしばらく過ごし、ほとぼりが冷めた頃にしれっと帰村したのでしょう。
しかしその後も、武士になるという夢が忘れられず、筑阿弥(竹阿弥)などと称し、茶坊主として織田家に取り入ろうとする生活を続けていたのなら……まぁ、これらは筆者が事実の断片から想像したストーリーにすぎないわけですが、子どもからは馬鹿にされる父親にしかなりませんし、系図に名前すら入れたくなくなるよね、という話です。
史実の兄弟たちのことも、ひとまとめに村では「小竹(こちく)」などと言われていたわけですが、これもやや侮蔑的な呼ばれ方のような気がします。いちおう「竹阿弥の息子(=小さな竹)」というのが表の意味ですが、「あー、あの坊さんになって借金取りから逃れたのに、今度は茶坊主になって御城に上がろうとしているあそこの家のお子さん」みたいなニュアンスが感じられないでしょうか……(ちなみに「小竹」とは、江戸時代初期に土屋知貞という武士が秀吉たちの少年時代を知る人たちに取材してまとめた『太閤素生記』が初出の呼び名です)。
しかし問題の父と同じく、兄弟も武家奉公に励んだのですが、彼らは正規のお侍となり、出世して国持ち大名となり、ドラマでは太陽を指していましたが、「もっと高い地位」――つまりは朝廷の関白(兄)、権大納言(弟)にまで成り上がっていきました。それが可能だったのは、彼らが完全実力主義を採用していた織田信長という異例のお殿様に仕えることができたことが発端なのですが、「偶然」と「必然」が交錯する歴史は本当に面白いですね……。
(文=堀江宏樹)
