『豊臣兄弟!』どこまでも浮世離れな織田信長、ドラマで描かれた桶狭間の戦いはどこまでが真実なのか

『豊臣兄弟!』、注目の第4回は「桶狭間!」とど直球のタイトルでした。永禄3年5月19日(1560年6月12日)の「桶狭間の戦い」は、大軍の将・今川義元(大鶴義丹さん)を、少数精鋭の部隊を率いた織田信長(小栗旬さん)が打ち破ることに成功するという戦国随一の大逆転劇です。通常なら「天才」としての信長を描くことだけに終始してもおかしくはないし、視聴者としても「当たり役」の信長を熱演する小栗さんの活躍をもっと見たかった……と思える内容ではありました。
しかし、ドラマでは全編にわたって主人公の秀長(仲野太賀さん)にフォーカスしました。あくまで主人公の存在感を高める作戦のようです。「主人公」として秀長は今後もドラマを引っ張る役割を任されていくのでしょう。そしてそのたび、さまざまなドラマ上の演出が楽しめそうです。
身分高き者しか「時代の主人公」にはなれなかったのが史実ですから、そこをどうドラマとして描けるか。また、それが脚本家の八津弘幸さんの腕の見せどころとなるはずです。
しかし、八津先生の手腕は一貫して巧みで鮮やか。前回(第3回)でも、「とんびが低く飛んでいるときは雨になる」という農村生活者としての生活の知恵を披露した秀長は、それで信長にひそかに注目されました……というのが、身分が低い=発言権がなかった時代の秀長を目立たせるためのドラマでの描かれ方です。
桶狭間の戦いの当日、ドラマでは雨が降っていましたが、史実ではさらに荒天だったようです。この日の午前中は晴れていたのに、信長が今川義元を攻撃する直前に雹(ひょう)混じりの大雨が、現在でいうなら6月だったにもかかわらず、突然降りだしたそうです(信長の側近=馬廻衆の一員だった太田牛一による『信長公記』の記述)。この一瞬の異常気象を、自分の味方にしたのが史実の信長でした。
『信長公記』と、ドラマで描かれた桶狭間の顛末はかなり食い違っています。この日も信長の側近として従軍していた可能性が高い太田牛一の証言=『信長公記』によると、当日の早朝、清須城にいた信長は、織田軍の主力部隊が立て籠もっていた丸根・鷲津砦への今川軍の攻撃開始の報を受け、飛び起きました。
しかしここらへんが浮き世離れしていてカッコいいんですが、信長は(ドラマでも描かれたように)「人間五十年」という幸若舞の『敦盛』を舞い、立ったまま湯漬けを食し、甲冑を着けたそうです。凡人なら、謡ったり舞ったりしている時間を食事や身支度に費やしてしまいそう……。
そのまま少数の部下だけ引き連れた信長は熱田神宮に向かいました。戦勝祈願を受けている間に、神宮に集結した1000人ほどの手勢を引き連れ、善照寺砦に入ります。
同時刻、丸根・鷲津砦は2万ともいわれる今川軍による猛攻に晒され、劣勢でした。そして実際に丸根砦を任されていた佐久間盛重(金子浩人さん)が戦死。一方、ドラマでは佐久間が信長を見限り、以前から今川に内通していたので、それを察知していた(?)信長は逆に佐久間を討ち取らせるように仕組んでおり、佐久間の首が今川本陣に運ばれていく動きで、義元の居場所を特定したという設定だったようですが、史実ではそういう気配はありません。
『信長公記』によると、佐久間の戦死を受けた善照寺砦では「もはや籠城策しかない」という弱気が家臣たちの間で蔓延しました。しかしこのとき、スパイ担当の簗田政綱(やなだ・まさつな、ドラマでは佐久間を刺殺した人/金井岳憲さん)からもたらされたのが、「今川義元が桶狭間山の北側で休息中」という情報でした。これがだいたい正午くらいまでの動きです。
そして昼過ぎから、雹まじりの大豪雨が降りはじめました。すると、信長はただちにわずかな手勢だけを引き連れ、善照寺砦を出るという策で行くと家臣たちに明かします。そして当然のように猛反対を受けました。家臣たちは「そのルートは敵からまる見えです」と引き止めたのですが、この豪雨こそ、信長が見いだした勝利へのわずかな可能性だったのですね。
このとき、信長から出たのが「天運は我にあり」という有名な言葉でした。そのセリフどおり、信長は豪雨に気を取られている義元本陣のすぐ近くにまで、荒天だから、そして少数の兵を率いていたからこそ、進軍に成功。雨が止んだタイミングで一気に攻め込み、義元の首を打ち取ったのでした。
――と「天才」信長の目線でしか語れないのが桶狭間の戦いの終結部ですから、これをヒラの足軽の豊臣兄弟の目線で描くためにドラマではさまざまな工夫をして、戦いの内容にフィクションを交えて描かざるをえなかったのです。
足軽部隊を結成できる報酬を得た秀吉
さて、戦国時代では戦の直後に生還兵たちに対する「論功行賞(ろんこうこうしょう)」が開かれました。自分が討ち取り持ち帰った敵将の首が検分されるのですが、「私はこういう手柄を上げました。高く評価してください!」とお殿様に直訴する機会でもあります。
兄弟も有名武将の首を差し出しますが、これは戦死した城戸小左衛門(加治将樹さん)が持っていた首を拾っただけだと正直に申告。人間として、大河ドラマの主人公として「正しい」言動でしたが、信長からの評価は高く(秀長の天気予報士スキル込みなのでしょうけど)、秀長の要求に応じるかたちで「銭五十貫」の特別ボーナスが出ました。歓喜する兄弟でしたが、この「銭五十貫」の現代的価値についてはすでにSNSでは多くの議論が出たようです。
筆者の感覚では、戦国当時の1文あたり現代の数十円程度(一部の識者が使っている1文あたり80~100円のレートは少々高すぎるかな、という感覚)。そして1貫=1000文ですので、「銭五十貫」は現代の数百万円ということになります。
たしかにこれだけでも大金なのですが、当時の「銭五十貫」というお金は、前回触れたように足軽などの定番武器であった槍(=1本あたり10文)が500本も購入できる金額なんですね。ドラマでは第1回から「足軽大将」になると言っていた秀吉が、秀長のおかげで本当に足軽部隊を結成できるだけの資金を手に入れてしまった計算になります。
さらに「銭五十貫」といえば、ごく小規模な村落から得られる1年あたりの農業収入とほぼ同額……ということで、現代の数百万円のボーナス以上の価値が当時では見込める大規模な褒章だったのです。二人の大喜びのリアクションも当然です。
さらにドラマでは、木下の姓と秀吉(池松壮亮さん)の名前まで、信長からこの時、同時にいただけていましたが、史料上、いつから秀吉が秀吉と名乗っていたかは不明。しかし、永禄3年の桶狭間の戦いの時点ではすでに彼は「秀吉」と自称していたようです。公的には、永禄8年(1565年)11月2日付の坪内利定宛て知行安堵状(坪内文書)で、木下藤吉郎秀吉と署名しているの最初だとされますが……。
普通、この手の「本当の名前」に相当する「諱(いみな)」は、男子が成人(元服)するときに、儀式に参加してくれた身分の高い人や、主君からいただくものなのですが、秀吉はあまり高いステイタスの生まれではなかったので、諱も自分で考え、自分に付けるしかなかったようです。
ちなみに「秀長」は史実的にいえば、だいぶ後になってからの諱で、当初は「長秀」と名乗っていました。おそらくドラマでは最初から秀長になりそうですが……ここらへんはまたドラマの進展次第でお話したいと思います。いずれにせよ、第4回目にしてこの「出世」。ドラマの展開はなかなかスピーディーになりそうですね。
さて、筆者の周りでは、「戦中、どさくさに紛れて味方ということになっている仇敵を本当に狙えたりするものか?」という疑問が出ていました。これへの回答としては「ありうるけど、かなり困難」といえます。
ドラマでは第3回でも(昨年の『べらぼう』でも引用された)曽我兄弟の逸話をテーマにした少年たちの舞を信長が見るシーンが出てきましたが、頼朝の時代に生きていた曽我兄弟は富士山麓での巻狩りの最中に事故を装い、父親の仇・工藤祐経を討つことに成功してはいます(『吾妻鏡』)。
しかし、兄・曽我十郎祐成(そが・じゅうろう・すけなり)は工藤祐経を殺した直後に騒ぎを聞きつけて駆けつけた工藤の家臣や源頼朝の部下たちを相手に戦死。また弟の曽我五郎時致(そが・ごろう・ときむね)も、頼朝による裁きの結果、斬首刑となりました。正義を盾にした仇討ちといっても、ハッピーエンドになることは少ないのです。情動に振り回されがちな秀吉を引き止める、「主人公」秀長のグッジョブぶりが光りました。
次回もおそらく、「策略家・秀長」の姿が描かれていくでしょう。第5回はタイトルが「嘘から出た実(まこと)」ですから……。次回予告で信長が命じていた「鵜沼(うぬま)を調略せよ」は、この兄弟の運命を決定づける転換点です。木曽川沿いの要衝である鵜沼城の調略は、初期の信長のライバルである斎藤龍興が治める美濃攻略の重要課題でした。
個人的には「槍の又左(またざ)」といわれた、若き日の前田利家の初登場シーンも期待です。しかし、史実でも男性の平均身長が150センチ程度だった時代に180センチくらいあったという超長身の利家と、当時でも小柄といわれた秀吉が本当に手合わせしていたのなら、互角の試合などできるはずもないと思うのですが、いかがでしょうか。来週も楽しみですね!
(文=堀江宏樹)
