『豊臣兄弟!』織田と朝倉を天秤にかけた浅井長政に囁かれる“兄弟愛”と“恩義説”

前回(第13回)の『豊臣兄弟!』、織田信長(小栗旬さん)と浅井長政(中島歩さん)の相撲のシーンが興味深かったですね。史実でも永禄13年(1570年) 3月3日、信長は琵琶湖東岸の安土にある常楽寺という寺を会場に、近江国(現在の滋賀県)中の力士を呼んで相撲大会を催しています。
当時の相撲は現在の大相撲より、レスリングに近い競技でした。源頼朝時代から武士に必須の足腰の鍛錬として行われたのが相撲であり、丸い枠から出れば敗退というルールが当時はなく、どちらかが投げ飛ばされるか、降参するまでは続く総合格闘技だったのです。
宣教師ルイス・フロイスが「信長は身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることを見るのを甚だ好んだ」と書いています。格段に強かった者にはスカウトも行われました。合理主義の信長にとって、体格と戦闘能力を自分の目で見て判断できるのが、相撲大会であったようです。
ドラマの長政が信長に勝つことはありませんでしたが、実際にこの二人が戦ったらどうだったのでしょう。史実の信長は敏捷ですが、身長170センチの超やせ型だったといわれます。一方、長政は“フィジカルエリート”で、かなりの長身と堂々たる体躯の持ち主でした。長政と市との間に生まれた茶々こと淀殿も、当時の成人男性の平均身長が150センチ程度だったといわれる中、170センチくらいの高身長美女だったともいわれ、淀殿が秀吉との間に産んだ秀頼は、公家の日記から「身長六尺五寸(=約197cm!)、体重四十三貫(=約161kg!)」と現代の大相撲力士を彷彿とさせる巨漢だったことが伝わります。
とにかく茶々と秀頼が度外れの“フィジカルエリート”である理由は、浅井長政から受け継いだ資質だったようですね。信長が長政という人物について意識し始めたのも、外見からしてリーダーとなるべく生まれたと思わせた長政の情報を、使者から聞かされていたからかもしれません。
浅井長政の誕生は天文14年(1545年)です。江戸時代中期成立の軍記物語(『浅井三代記』など)では、優柔不断な長政の父・久政(ドラマでは榎木孝明さん)が、身重の妻――つまり長政とその母を、南近江の巨大勢力・六角氏に人質に差し出したせいで、六角氏の居城で長政も誕生したし、そのまま彼が8歳になるまで母子ともに屈辱的な人質生活だった……と語られがちですが、実際の長政は湖北の小谷城(かその周辺)で生まれたようです。
戦国武将の人間関係は現代人が考える何倍も複雑です。ドラマでは浅井が親密だったのは越前の朝倉家だけと簡略化されていますが、当時、北近江の浅井家は南近江の巨大勢力・六角家との関係維持にも苦慮していました。さらに朝倉と六角も敵対関係にあり、その板挟みになりながら、独立勢力としての立場をどうすれば維持していけるかを考えねばならないのが、浅井久政・長政父子時代の浅井家だったのです。
長政の“長”は信長からの一文字か
永禄2年(1559年)、(のちの)浅井長政は15歳(満14歳前後)で元服。六角家当主・六角義賢から偏諱(へんき)として「賢」の一文字を譲り受け、賢政と名乗ることになりました。また、六角家臣・平井定武の娘(名前不詳)を正室としてあてがわれました。
しかし永禄3年(1560年)、長政は六角家による不当支配に反旗を翻した「野良田の戦い」に圧勝。最初の妻(平井氏)を離縁し、父・久政を隠居させることにも成功しています。ちなみに市(宮﨑あおいさん)と結婚する前に生まれていた嫡男・万福丸(近江晃成さん)の実の母親も、平井家の娘以外の女性――おそらく氏名不詳の側室だったはずです。
この「野良田の戦い」が長政の初陣でしたが、ちょうどこの年、27歳の信長も「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取っています。それゆえ、信長と長政はお互いを意識し始めていたのではないか……と考えられるわけです。
その証拠となるのが、翌・永禄4年(1561年)ごろ、「賢政」から「長政」への改名です。この「長」の文字が信長からの一文字ではないかといわれています。たしかにこのあたりは具体的には何の史料もないのですが、水面下で浅井と織田との使者の往来と情報収集が始まっていた可能性は高いです。
というのも、以前も少しお話しましたが、永禄8~9年(1565~1566年)、のちの足利義昭(当時は覚慶、尾上右近さん)からの使者として細川藤孝(亀田佳明さん)が信長のもとを訪れ、「義昭公を奉じて上洛しないか?」という打診をしたところ、信長が「やります!」と即答した記録があるのです。このときは細川たちが美濃の斎藤龍興(濱田龍臣さん)との和睦を仲介し、上洛のためのルート確保をしたのですが、織田と斎藤の確執が再燃。信長の美濃攻めが本格化したので、上洛計画は延期となりました。
ただ、この時の信長が即答できたのも、近江国を通って上洛せざるをえない彼にとって、北近江の浅井長政の協力をえられる確信があったからこそだと推察されるのです。
また、信長は永禄10年(1567年)、斎藤龍興を美濃から追い出し、美濃平定を成し遂げましたが、ここで彼は自分の妹の市と浅井長政を結婚させています。両者の結婚時期については諸説ありますが、おそらくこの時期なのでしょう。
この時、信長は市と長政の婚礼費用の全額を負担しています。婚礼費用は夫側が負担するのが通例だった当時、信長が長政によく思われようとサービスに努めている構図だと理解できます。
長政も、市との結婚を受け入れた理由は、新興勢力である織田と結び、南近江の六角と越前の朝倉という二大勢力の板挟みという構図を打破できると踏んだからなのでしょうね。
こうして永禄11年(1568年)、信長は自ら平定した美濃、そして身内にした北近江の浅井の所領を通って、足利義昭との上洛に成功したのでした。この時、長政(当時24歳)も小谷城で義昭を接待するなど、織田の同盟者として活躍しています。
ところが……元亀元年(1570年)4月、信長による越前の朝倉義景攻撃に際し、浅井長政は突然信長を裏切り、朝倉家と結託して織田軍を背後から攻撃したのです。これが次回以降のドラマで描かれる“一大修羅場”ですね。
次回のあらすじはこちら。
「浅井長政が朝倉方に寝返ったと知った信長は激高。しかし藤吉郎の機転で冷静さを取り戻し、退却を決意する。藤吉郎はわずかな手勢で、信長が京に戻るまで朝倉軍を食い止める『しんがり』を担うことになり、小一郎は、その中でも最も危険な役目を引き受ける。兄弟の命がけの撤退戦が始まる! その頃、京で長政の謀反を知った義昭は、ある決意を固めていた」
命がけで信長の逃亡を助け、寝返った浅井と朝倉の連合軍の猛襲を食い止める「殿(しんがり)」を秀吉・秀長兄弟(池松壮亮さん、仲野太賀さん)が務めたのは史実です。
信長は「義弟」長政のことを信じ込んでいたから、当初、長政の裏切りを信じようとはしなかったという『信長公記』のエピソードですが、「兄弟愛」以上の理由があったとする学者もいます。
実は当時の浅井家にとって、朝倉家は長年の恩義以上に仇敵の側面が強いのではないかという指摘があるのです。「恩義説」の出どころは、江戸時代後期成立の軍記物語『名将言行録』などで、長政の祖父・亮政の代に、朝倉宗滴の名で知られる天才武将の手助けによって浅井は六角の攻撃を退けることができたと語られがちです。
しかし実際はその朝倉宗滴によって浅井家の居城・小谷城が攻撃され、長政の祖父・亮政は城から逃亡したという記録があり(『朝倉家記』など)、伝承と史実は真逆のようです。六角家が「わがもの顔」で接している浅井家に対し、朝倉家も浅井を攻撃し、強さを見せつけ、自分たちの影響下にも置こうとしていたのかもしれません。浅井は二重支配を受ける形ですが、六角と朝倉の双方にいい顔をしておけば、六角とモメたときは朝倉、そして朝倉とモメた時は六角……と助けてくれる相手がいるので、それなりの関係だったのかもしれませんね。
長政のデビュー戦とされる対・六角家の「野良田の戦い」でも、朝倉からの援軍があったとの情報は確認できませんでしたが、浅井が六角と戦っている時、朝倉は六角に味方しないとか、浅井を背後から攻撃しないとか、その手の盟約は結んでいたと考えるほうが自然です。またそれを「恩義」と呼ぶことも可能でしょう。
このようにあくまで格上的存在として六角・朝倉の両家が浅井をコントロールしようとしている中で、織田家だけは浅井家を厚遇し、信長は若き当主・長政を信長は高く買っていたようですから、長政も信長になびきたくなった気持ちはわかります。
しかし織田による朝倉攻めの際、織田と朝倉を天秤にかけた長政は、朝倉の肩を持つという選択をしたのでした。史料がないので想像するしかないのですが、引退させられた後も小谷城で隠然たる勢力を保持していた長政の父・久政による説得以上に、朝倉から織田以上に有利な条件が提示されたなどの“大人の事情”があって、総合的に織田を切るほうがトクだと長政本人が判断したと考えるほかはありません。
このように史実から見る長政は“ザ・戦国武将”というべき権謀術数の持ち主であり、誠実な人柄のドラマの長政とはかなり違うようです。そういう「差異」を念頭にドラマを見ていくと、いっそう楽しめそうですね。
(文=堀江宏樹)
