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『いもうとの時間』公開記念インタビュー

「さよなら東海テレビ」阿武野プロデューサーが地方局で働くスタッフらに託したもの

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阿武野勝彦プロデューサー(写真:ブライトホース・フィルム提供)

 テレビ業界のパイオニアのひとりが、第二の人生をスタートさせた。名古屋に本社を置く「東海テレビ放送」の阿武野勝彦プロデューサーは、これまでに『ヤクザと憲法』(2016年)や『さよならテレビ』(20年)などの型破りなドキュメンタリー番組を次々と手がけ、劇場公開することで全国へと情報を発信してきた。東京のキー局の意向に捉われずに、ローカル局が独自にメディア展開していくスタイルが大きな話題となった。

 2024年1月に阿武野プロデューサーは退職し、最後のプロデュース作品となる『いもうとの時間』が2025年1月4日(土)より劇場公開される。東海テレビに別れを告げた阿武野プロデューサーの近況と、そして40年以上に及んだテレビマン人生について語ってもらった。

自由度の高い職場だった東海テレビ

――現在は「つちのこの里」として知られる岐阜県東白川村で暮らしているそうですね。

阿武野勝彦氏(以下、阿武野) 明治時代に建てられた古民家を改築して暮らしています。主な仕事は草刈りです(笑)。ひと箱だけですが日本ミツバチを飼い始めたので、ハチミツが採れる来年は養蜂家を名乗れそうです。もともとは『村と戦争』というドキュメンタリー番組を終戦50年のタイミングで制作し、その取材で東白川の方たちにはお世話になり、それ以降ずっと交流が続いていました。2025年は終戦80年なので、村の平和祈念館に関連するイベントも開催します。いま、朗読会の台本を書いているところです。

――自然と人とのつながりに恵まれた豊かなセカンドライフを始められたようですね。アナウンサーとして東海テレビに入社され、その後はドキュメンタリー制作者として活躍することになった阿武野プロデューサーのテレビマン人生を振り返ってもらえればと思います。

阿武野 東海テレビは社員300人のローカル局で、こちらの向き不向きを考えて、希望を叶えてくれる組織でした。アナウンサーをやめて、番組制作をやりたいと言えば、そうしてくれましたし、記者として取材の基礎を学びたいと話すと警察の記者クラブにも入れてくれました。『平成ジレンマ』(11年)から始まった「東海テレビ ドキュメンタリー劇場」も、『いもうとの時間』で16本目になりますが、これも私の希望で始めた仕事です。ここまで優しい職場はそうないでしょうね。

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1961年に起きた「名張毒ぶどう酒事件」を追った『いもうとの時間』(写真:『いもうとの時間』より)

スタッフを生き返らせた劇場公開

――ローカル局が自社制作のドキュメンタリー作品を独自に配給し、全国公開するという「東海テレビ ドキュメンタリー劇場」はこれまでにない興行スタイルでした。局の上層部は「赤字にならなければいいよ」という感じで容認したんでしょうか?

阿武野 「赤字にはしません」と一応言いましたが、放送前にCMを売ってしまうテレビ番組と違い、映画の結果が出るのは公開から1年後ぐらいです。テレビとは収支のタイミングが違うわけです。そこを逆手にとって、赤字かどうか確定しないうちに、第2弾、第3弾と次々に公開しました。そのうち3本目から動員1万人を超える作品が生まれるようになりました。当時の経営者からは「原則、年に1本」と言われたので、「原則ってことは、例外があってもいいんだ」と解釈して、最初のうちは年2本公開しました。異論は出なかったので、そんなペースになりました(笑)。

――阿武野プロデューサーが始めた「東海テレビ ドキュメンタリー劇場」は、それまで「視聴率」という尺度しかなかったテレビ局に、新しい尺度を持ち込んだことが特筆されると思います。

阿武野 それは、うれしい評価ですね。自分たちが作った作品が映画館で上映されることで、まずスタッフが生き返りました。映画館のいちばん後ろの席に座って、お客さんたちの生の反応を知ることができたんです。それは「送りっ放し=放送」の番組を作ってきた私たちにとって、素敵な体験でした。観客はどんなふうに観ているのか、見終わったお客さんたちが映画館を出てきて熱く語る様子とか、そういう手触りを実感したんです。この体験によって、より良いものを制作して観てもらおうとスタッフは鼓舞されました。以来、劇場公開することはやめられない快感になりました。ものづくりする人間たちにとって、お客さんたちの反応や手応えは、本来欠くことのできないものなんです。それなのに、視聴率という数字だったり、賞を獲ることも評価だったり、番組はコミュニケーションとして閉じた世界にありました。まして、私たちは賞を獲るためにドキュメンタリーを作るなんてことはない。あくまで番組は地域の人たちへのメッセージなので、作品の内容に合わせて、編成と相談して土日の午後に放送したり、番組の長さもなるべく自由にして、作品性を第一義に考えてきました。

――上層部と火花を散らしたこともあるそうですね。

阿武野 最初の大きな軋轢は、1999年に起きた「光市母子殺害事件」を扱った『光と影 光市母子殺害事件 弁護団の300日』(2008年放送)でしたね。放送させないということで、当時の社長と直接話し合いましたが、「鬼畜弁護団を扱うお前は気狂いだ」と罵倒されました。とんでもねぇことを言うなぁと、こっちもケンカ腰ですよ(苦笑)。テレビにとって報道とは何か、放送の公共性とは何かを考えたことがなかったんでしょうね。しばらくしてBPO(放送倫理・番組向上機構)から「光市母子殺害事件」の報道について、マスメディアによる集団的過剰同調、メディアスクラムを批判する意見書が出ました。その中に「ある地方局が弁護団の側からこの裁判の取材をしていることを仄聞(そくぶん)した。多様な見方、多彩な表現を提示することを期待する」と書いてあり、「これは、東海テレビのことじゃないか」と、そこから風向きがガラリと変わりました。放送するとたくさん賞をいただき、各社からビデオを見せてくれと反響がありました。仄聞ですが、放送界の会合に行くと社長は「私がやらせました!」と話していたそうです。まぁ、最終的には放送に至ったので、社長が容認したことに間違いはないですが(笑)。そのときは編成局長と報道局長が終始支えてくれました。あのとき、丸ごと経営者に屈していたら、その後の東海テレビ ドキュメンタリー劇場はなかったですね。トラブルや暗闘は続きましたが、経営者が番組の中身に手を突っ込んでくることはなくなりました。放送メディアは地域の人たちとの信頼関係がいちばん大事です。その礎となる制作者を大切にする環境であり続けてほしいですね。

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無罪を主張し続けた奥西勝死刑囚(写真:『いもうとの時間』より)

長澤まさみ主演ドラマ『エルピス』と東海テレビとの関係

――阿武野プロデューサーが協力した鹿児島テレビの『テレビでは会えない芸人』(20年)も劇場公開されました。東海テレビに刺激を受けたチューリップテレビの『はりぼて』(20年)は、富山市議たちの不正を暴き、大きな話題になりました。東海テレビが火付け役となり、ローカル局が独自に劇場公開するケースが増えています。

阿武野 私たちの活動が発端となって、大きな波になってほしいと願っていましたが、想像以上にドキュメンタリー映画への地方局の参入は早かった。最初は「どうすれば、劇場公開できるのか?」といった問い合わせが頻繁に来ていたので、地方局の映画化の動向は手に取るように分かりましたが、今はもう全然わかりません。一般化したのでしょう。もともと、全国各地に優秀なドキュメンタリー制作者たちがいることは知っていました。それが、全国ネットにはならず、そのまま作品は消えていくという残念な事態もわかっていました。そこに「ドキュメンタリー作品を劇場公開して全国に展開できるよ」「テレビ局の系列に縛られずに表現ができるよ」ということを知らせることができたんだと思います。トンネルを掘り続けていたら、穴の先に光が見えてきた。もう映画化というトンネルは開通しましたね。うれしいことです。

――2022年に放送された長澤まさみ主演ドラマ『エルピス 希望、あるいは災い』(カンテレ制作、フジテレビ系)は、テレビ局内のパワーバランスや冤罪事件が題材になっていました。東海テレビがずっと追い続けてきた「名張毒ぶどう酒事件」をめぐる一連のドキュメンタリー作品や『さよならテレビ』からの影響もあったんじゃないでしょうか?

阿武野 プロデューサーが椅子を振り回して、ニューススタジオのセットをぶっ壊しまくったでしょ!? 繰り返し観たんですが、あのシーンになると、僕は胸が詰まって涙が出てしまう……。

――もともとは報道部にいた村井プロデューサー(岡部たかし)が、真実を伝えようとしない自局に怒りを爆発させる名シーンでした。

阿武野 今の報道マンの潜在的意識じゃないでしょうか、「僕も……」「私も……」(笑)。『エルピス』の佐野亜裕美プロデューサーとは、少し前に対談しました。『エルピス』の企画は佐野さんがTBSに在籍していた頃から脚本家の渡辺あやさんと温めていたものの、取りかかれずにいた。カンテレに移ってから手がけたということなので、『さよならテレビ』に影響を受けた企画ではありません。ただ、悶々とした時期に『さよならテレビ』を観て「やれるんだと励まされた」と話していました。あの頃「テレビってなんだろう?」「テレビはこのままでいいのか」と考えている人たちがいて、同時多発的に『さよならテレビ』や『エルピス』などが表出したんじゃないでしょうか。

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死刑判決から無罪を勝ち取った袴田巖さん(写真:『いもうとの時間』より)

思いっきりスイングしろ。それ以外の何ものでもない

――『さよならテレビ』を撮った圡方宏史監督を、ドキュメンタリー班に引っ張ってきたのも阿武野プロデューサーですね。

阿武野 圡方くんは東京制作を振り出しに社内漂流をし始めていましたね。『平成ジレンマ』などを撮った齊藤潤一くんが「彼にドキュメンタリーをやらせてみては」と言うので、そうなりました。彼の最初のドキュメンタリー映画は『ホームレス理事長』(13年)です。高校を中退した球児たちを追っていましたが、「理事長は何をしているの?」と訊くと、「金策をしています」と言うので「そっちを追ったほうが面白いんじゃない?」とアドバイスしたんです。

――挫折を経験した元球児たちを救済しようとする理事長が借金を背負ってホームレスになり、圡方監督にまでお金を無心するという衝撃的なドキュメンタリーでした。阿武野プロデューサーのそのひと言がきっかけで、圡方監督は後に『ヤクザと憲法』や『さよならテレビ』などの先鋭的なドキュメンタリー作品を生み出すことにもなる。

阿武野 人と人が出会い、その人に言われたひと言で、変わっていく……。それが人生ですよね。僕と圡方くんの場合は、取材の方向性でバチっと合ったんでしょう。でも、『ホームレス理事長』は観客動員がいちばん少なかったですね。全国公開して、3000人たらずでした(苦笑)。ところが、『ホームレス理事長』は映画人からの評価が高く、「東海テレビ作品にハズレなし」という映画評が出始めたきっかけになりました。せっかくドキュメンタリーを作れるんだから、評価など気にせず、とにかく作りたいものを作ろう。野球でいうなら、投げるときは全力投球、バッターボックスではフルスイング。ストライクを取りに行ったり、ポテンヒットを狙っちゃ面白くない、と。

長野辰次

映画ライター。『キネマ旬報』『映画秘宝』などで執筆。著書に『バックステージヒーローズ』『パンドラ映画館 美女と楽園』など。共著に『世界のカルト監督列伝』『仰天カルト・ムービー100 PART2』ほか。

長野辰次
最終更新:2024/12/31 12:00