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沖田臥竜の直言一撃!

メディアが築いた負の遺産―商業的報道の権力化が作る未来とは?

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イメージ画像(写真:Getty Imagesより)

 もっと明るい話はないのだろうか。週刊誌はその取材力を、前向きな報道に向けるべきではないか。ターゲットにされた取材対象者と、それを直撃する記者。そこに生じるやりとりを読んでいると、権力を振りかざす刑事の職務質問のような高圧さを感じてしまうのは気のせいだろうか。

 どんな取材対象者にも敬意を払うというのが、記者の最低限のマナーだったはずなのだが、記者たちの取材活動はときに相手に精神的恐怖を与えてしまっていないか。週刊誌やネット媒体で仕事をしている立場としては、嘆かわしいことだ。

 だが、これだけは断言できる。どんな時代になろうとも、法治国家である日本において、人を裁き、罪を犯した者にペナルティを与えるのは司法でなければならない。これは秩序の問題でもある。

 刑事事件になっていない事案を、マスメディアが犯罪のように扱い、ネット民が当事者を叩きのめし、社会的に抹殺するような風潮は決して正しくない。これを正義というならば、正義が歪んでしまっているのだ。

 大勢でひとりを奈落の底に突き落とす行為に対して、私はいつだって異議を唱えたい。理由は単純だ。可哀想だからだ。反論できぬ立場の人間を袋叩きにするのは、倫理的にも許されるべきではない。

 いつまでこの現象は続くのだろうか。

 中居正広の女性トラブルに端を発したフジ問題をめぐる報道は、今もまだ続いている。トラブル内容の是非について、私は断言するための正確な材料も答えを持っていない。そもそも、私は人を裁ける身分でもなければ、そのような資格も持っていない。それは、記者もネット民も同様だ。

 報じるマスメディアが悪いのか、はたまた報じられる著名人が悪いのか、常に意見が対立するが、実際はそれだけではない。それらを目の当たりにして騒ぎ立て、一方に度を超えた誹謗中傷をエスカレートさせていく人々も決して褒められた立場ではない。

 罵詈雑言を言う人たちは、「こんなことをやってやったぞ!」と周りに胸を張って言うことができるか。もしできるというならば、それは哀れである。人の不幸で得られる満足感とはどのようなものだろうか。本当の喜びとは、自己の努力のうえで勝ち取っていくものだ。

 ほとんどの週刊誌もネット媒体も売上が落ちている。だからこそ、より過激な記事を書こうとする思考もあるだろうし、嫌われるのを恐れてスキャンダルを報じなくなれば、メディアの仕事は上がったりということだろう。綺麗事で生き残れるほど甘くはないのは、どの世界でも共通する。ただし、いかなる時も良心を持つべきだ。それを失った者がジャーナリズムや公益性を語るのはおこがましい。

被害女性に発言を迫った危うさ

  週刊文春を読んでいて、疑問を抱いた。報道当初から気になっていた点でもある。

 中居氏は、女性に対して多額の解決金を支払い、トラブルについては双方とも口外はせず、それを破った場合には賠償責任を負うことで合意し、示談書が交わされたという事実にかかわる点だ。

 中居氏は、マスメディアの報道やSNSの批判を受けながらも、示談通り口外せず引退した。

 一方、被害者女性は伏字でありながら、中居氏に対する許せない気持ちを吐露している。それは積極的に告発しているというよりも、メディアから聞かれたので応えていると考えるのが妥当だろう。執拗な取材要請がなければ、発言はしなかったはずだ。

 そこに取材手法として危うさを感じるのだ。

 示談書が成立した中で、被害者女性が取材に応じることは、法的・社会的なリスクを抱える可能性がある。その点について、取材する側は慎重に判断すべきではないか。中居氏が「約束が違う」と言い出し、女性側に高額な賠償責任などが生じたら、誰が責任を取るのだ。「示談を反故にした」と女性を激しく責める人たちが出てきたら、女性はさらに傷つかないか。

 そうしたリスクを考えると、被害者女性に直接、何かを話させるべきではなかったのではないか。こうした状況がまかり通れば、法治国家において、示談書が持つ効力とは何なのだという当然の疑問がわいてくる。

 デイリー新潮なんて、「ほとんど影響はありません。彼は賞味期限が切れかけていたからです」といった論調で書きたい放題ではないか。

 もちろん詳細は語れないが、私はある大物タレントが関与したトラブルで、関係者と週刊新潮本紙との間に入り、双方の納得がいく落とし所を見つけたことがあった。どちらとも金銭的な関係は一切ない。ただ深くは語らないが、本紙側に必ずしも誠実さがあったかといえば、疑問符がつく対応だった。それ以来、仲の良かった本紙記者とも疎遠になったし、新潮とは仕事もしていない。

いまだに報道し続ける意義

 仕事とは、人間同士の信頼関係の中で成立するものだ。しかし、報道の世界では信頼と対立が常に交錯する。なにかとお騒がせな望月衣塑子記者や木下ほうかに関しても、私の知人である彼らが週刊誌に叩かれた際、編集部サイドにどうにかならないかとお願いしたことがあった。

 それに対して特に思うことはないが、担当記者との交流は途絶えた。それはそれで構わない。ただ終始一貫、損得ではなく、誠実な対応を最後までとったのは私のほうだと思っている。

 私なりに週刊紙の仕事をさせてもらっているので、彼らの事情は少なくともネット民よりは理解している。経済面も含め、その苦労だって知っている。

 だが、中居氏はもう引退したのだ。被害者女性のリスクを考慮しても、もうこの問題はそっとしてもよいのではないか。

 Xに目をやれば、誹謗中傷が溢れている。YouTubeでは暴露や他人を陥れる動画が視聴者の関心を惹き、再生回数が跳ね上がっている。

 由々しき光景であるが、なるべくしてなったともいえる。それに加担してきてしまったのがマスメディアというのならば、未来に大きな負の遺産を残したのではないか。愛されなくとも、憎まれてしまえば衰退は避けられない。どの業界でも同じだ。好かれるべきというのではない。せめて公正公平であるべきではないか。

 少なくとも週刊紙が人々に恐れられる存在になってはならないし、ジャーナリズムとは恐怖と同義語ではないはずだ。

(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)

沖田臥竜

作家・小説家・クリエイター・ドラマ『インフォーマ』シリーズの原作・監修者。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』シリーズ(サイゾー文芸部)がドラマ化もされ話題に。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

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最終更新:2025/03/02 18:00