生成AIで加速する若者の“タイパ学習” 概要依存が奪う読解力

1年ほど前に、立命館大学大阪いばらきキャンパス(OIC)にMicrosoft Base(https://www.microsoft.com/ja-jp/events/azurebase/places/ritsumeikan)が開設されるというので、記者会見に参加した。そこで、マイクロソフトの責任者は「Copilotを使ってAI関連の論文を毎日3本読んでいる」 と語っていた。
そのときはちょっとした驚きがあったが、いま聞けば「そんなことも簡単にできるだろう」と受け流すだろう。
生成AIの進化がめざましい。
アメリカの大学院に留学している知人は、NotebookLMを重宝していると言う。授業の予習復習、レポート作成の情報収集には大いに役立つだろう。複数の論文の要点をまとめたり相互の論文の主張を比較したりしてくれるから効率的だ。NotebookLMの「音声概要」は日本語よりもひと足早く英語に対応していたから、我々よりも早く活用していたようだ。
私は日常的に、新書レベルの本はKindleで購入してスマートフォンのAmazon Alexaアプリを使って「音声で」読んでいる。漢字の読み間違いはある。図版や外字は飛ばしてしまう。とは言え、電車での移動中や散歩の際に、本を広げることなく、スマホからワイヤレスのイヤフォンを通して音声で読めることはとても便利だ。音声に変換された情報は淀みなく流れていく。気になるところは音声を止めてKindleで確認すればいい。生来の「ながら族」ゆえに調べ物をしたり音楽をBGMとして聴いたり、パソコンで野球を観たりしながら、本を音声で読むことは得意とするところだ。
だから、論文や記事などの概要を文字情報から音声に置き換えてくれる、そのありがたさを日々感じている。家を出る前に、パソコンで記事や論文を「音声概要」に仕込んでおく。いまはNotebookLMだけでなく、Geminiでも日本語の「音声概要」を作成できるようになった。だから、パソコンのGeminiでDeep Researchした結果を音声概要にしたものを、スマホで、パソコンと同期した音声概要を聴くことができる。とても便利だ。
このように、大量のデジタル化された書類や記事や小難しい論文を読むときに、とても重宝する。海外の論文も日本語に訳してわかりやすく概要を示してくれる。大量の書類や記事も要領よくまとめて概略を教えてくれる。さらに、いまや生成AIに調べてもらったものの概要をわかりやすい音声で確認できる。
今、若者が気にするコスパ(コスト・パフォーマンス)やタイパ(タイム・パフォーマンス)の観点でも、生成AIは非常に優れている。そのため、若者は生成AIを積極的に活用する傾向にある。
自然と、それが癖になっていく。手っ取り早く、効率よく情報を得られるからだ。何より、全体を読む前に概要を掴んでおくことで、内容が頭に入りやすくなる。
ところが、こうした概要に慣れてしまうと、肝心の本文を読まなくなる。つい、概要で十分だと思ってしまう。しかし、生成AIはいまだにハルシネーションをよく起こす。だからこそ、利用者は概要を読んだら本文を検討する必要があるはずだ。にもかかわらず、学生たちは本文を読むよりも次の情報へと急ぎ、何よりもたくさんの情報に触れることが大事だと、情報を概要にして詰め込んでしまう。その危うさを感じながらも、流されてしまう。
こうして人は「概要文化」に染まっていく。しかし、「概要」に頼ることで、「詳細」が見落とされてしまう。当たり前のことだ。
しかも生成AIがアプローチできる情報には限りがある。Web上にある情報でも「会員限定」のような「閉じた」情報にはアプローチできない。1990年代以前の記録も記憶も、インターネット上ではそれ以降に比べてとても薄い。生成AIはデジタルにしか対応しない。Deep Researchであってもアプローチする情報もまだまだ少ない。すべてを網羅するわけではない。さらには、正しい情報も誤情報も等しく扱う。
それに、文学的、芸術的な表現や示唆に富んだ鋭いキーフレーズなどは、抜け落ちやすく、平板になりがちだ。深みがない。デジタルから抜け落ちるものがある。温もりや息吹といった、人間的な実感は抜け落ちる。森の中を駆け巡る仲間の汗の臭いを嗅いだり息づかいを感じたりすることもできない。残念ながら「概要」だけでは豊かに学ぶことはできない。
「概要文化」では、コスパやタイパを意識して短時間に「賢く」学ぶことはできるが、「豊かに」学ぶことはできないだろう。
デジタルから抜け落ちるものは何か。
「豊かに」学ぶとはどういうことか。 これからの教育で、注視したいことだ。
(文=後藤健夫/教育ジャーナリスト)