分断の時代に注目されるポール・ニューマンのレガシー 引き継がれる社会貢献の心

分断が深まり、殺伐とした雰囲気の米国で、生涯、慈善活動に力を注いだ俳優ポール・ニューマンの功績に改めて注目が集まっている。
ポール・ニューマンの発案で始まった重い持病を患う子どもたちが参加するサマーキャンプは現在も続いており、米国のみならず世界に広がっている。ドレッシングの製造・販売から始まった食品会社の純利益はすべて慈善事業の活動費用として使われ、米国企業の社会貢献事業のモデルケースでもある。
肺がんで2008年に他界してから17年。今年は生誕100年になるが、ポール・ニューマンの精神はハリウッドの内外で受け継がれている。
重病患う子どもたちにサマーキャンプを無料で開催
米国では5月下旬から6月にかけて卒業シーズンを迎える。在校生は1年の学期が終わり長い夏休みに入るが、サマーキャンプは子どもたちの夏の一大行事で、大人になっても記憶に残る思い出作りの場である。
米3大ネットワークのひとつであるNBCの朝のニュースショー『TODAY』は6月24日、サマーキャンプ場でポール・ニューマンの末娘、クレア・ニューマンさんのインタビューを放送した。
ポール・ニューマンは1988年、「ホール・イン・ザ・ウォール・ギャング・キャンプ」というサマーキャンプを始めた。自身が出演した映画史上に残る西部劇『明日に向かって撃て!』に登場するギャングの名前をもじって名付けられた。
健康な子どもたちがキャンプで夏の思い出を作る一方で、がんなど慢性的な重病を患う子どもたちはサマーキャンプにさえ行くことができなかった。ポール・ニューマンはこうした子どもたちに無料でサマーキャンプを体験してもらう場を設けたのである。
クレア・ニューマンさんは父親が死亡した2008年以降、その意志を引き継ぎ、事業を続けている。現在では本拠地のコネチカット州アシュフォードのほか、米国内外の約30ヵ所で、通年でキャンプが開催されている。これまでに200万人以上の子どもと家族がキャンプに参加し、息の長い慈善事業として米国で広く知られる。
放送ではキャンプ場での取り組みが紹介され、クレアさんは「ここが父親自身の一部なのだと思う。恵まれた生活を送れることを幸せだと思い、その気持ちで社会に還元している。これがまさにポール・ニューマンの遺産だ」と話している。
大戦中は海軍に 「傷だらけの栄光」でスターダムにのし上がる
ポール・ニューマンは1925年1月26日、オハイオ州シェーカーハイツに生まれた。父親はユダヤ人のスポーツ用品店経営者。母親はクリスチャン・サイエンスを信仰するカトリック教徒だった。
第2次世界大戦中、米海軍に入隊しパイロットをめざしたが、トレードマークである「青い瞳」が災いし、色覚異常を患い、パイロットの道を断念した。オハイオ州のケニオン大学を24歳で卒業した後も演技への情熱を持ち続け、イェール大学の演劇学校に進み、その後、ニューヨークの名門「アクターズ・スタジオ」で演技力を磨いた。
1953年にブロードウェイデビューを果たし、ハリウッドの注目を集め、すぐにワーナー・ブラザースと契約した。
ポール・ニューマンがブレイクしたのはボクシング世界ミドル級チャンピオン、ロッキー・グラジアノの生涯を描いた『傷だらけの栄光』(1956年)での演技だ。ボクサーの複雑な心境を深みとリアリティを表現した。
その後、『ハスラー』(1961年)や『明日に向かって撃て!』(1969年)、『スティング』(1973年)などに出演し、映画界での地位を確固たるものに。アカデミー賞の演技部門に9回ノミネートされ、『ハスラー2』(1986年)で主演男優賞を獲得した。俳優としての活動に加え、自動車レースにも情熱を注ぎ、プロとしてレースに参戦し、数々のチャンピオンシップを獲得した。
起業家としても成功 リベラルな主張で大統領の「政敵」に
起業家でもあり、1982年に自家製サラダドレッシングを製造・販売する食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立し、数百万ドル規模の売り上げを誇る企業に成長させた。会社の純利益のすべてを慈善団体に寄付し、サマーキャンプなどの活動資金にあてた。ポール・ニューマンは生前、ほぼ毎週のようにキャンプ場を訪れ、子どもたちと過ごしたという。
企業収益を社会的事業につぎ込む経営は、地球環境問題がクローズアップされるようになった現在、注目されている。大手アウトドア用品メーカーの「パタゴニア」は、創業者と家族が保有する同社の全株式を環境保護のために立ち上げた非営利団体に譲渡することを決めた。
ポール・ニューマンは40年以上前に、社会貢献事業のために、こうした経営手法を実践していた。政治的にはリベラルで、ベトナム戦争に反対。同性愛の権利の向上や銃規制を強く訴えていた。ウォーターゲート事件で失脚したニクソン大統領が政敵となる人物のリストを作成していたことが問題になったが、ポール・ニューマンの名前はこのリストの中にあった。ポール・ニューマンはこのことを知り、喜んだと伝えられている。
考え方の違いを徹底的に批判するトランプ大統領の時代に、ポール・ニューマンが生きていたら、大統領にどう挑んでいただろうか。
(文=言問通)