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沖田臥竜の直言一撃!

メディアが作った中居問題―示談で終わるはずの事件を消費し続ける罪

中居正広(写真:サイゾー)
中居正広氏(写真:サイゾー)

 昨今の片側の意見のみで執拗に相手を批判し、結果、社会的な制裁を与える論調に違和感を拭えないのは私だけだろうか。まあ、私だけでも至って構わないのだが……。

 私が思うマスメディアのジャーナリズムとは、公益性があるのは当然ながら、根底には公平公正がなくてはならないと思っている。つまり片側の意見のみで、判断するなということだ。

 なぜだかわかるだろうか。真実を伝えることと、人を裁くことは、そもそも役割も意味もまったく別だからだ。

フジ会見で露呈した記者たちの暴力性

 人を裁けるのは司法のみでなくてはならない。つまり世論やメディアが裁いてはならないのだ。それは論じるまでもない。日本という国が法治国家だからである。

 それがどうだ。メディアの報じ方で無責任なネット民が群衆化し、結果、行き過ぎた世論が社会的に人を裁く事態になってはいないか。それで誰かが救われているというのならば、理解はできる。

 私だってそうだ。筆を持つ者として、そこに自分の正義があると思えば、たった1人でも戦おうと考えてしまう。だが、報じ続けることで反論が反論を呼び、誰かが傷つき続けるならば、報じるべきでない問題もあるのではないか。

 例えば、マスメディアが作り上げ、今も続いている中居正広氏の問題である。

記者会見が“吊し上げ”の場と化した日

 結局、中居氏を徹底的に吊るし上げて、それはフジテレビにまで延焼した。同局は「これをパワハラと呼ばずして何をパワハラと呼ぶのか」を言いたくなるほどの、前代未聞の10時間超の記者会見を開く事態となったのだ。そして、それを看過してしまうほど、大勢の感覚が麻痺していたのである。

 マスメディアが中居問題に発展させたことで、大勢は通常の感覚では、なくなってしまっていたのだ。

 冷静になって考えたらわからないか。記者会見という名目で、10時間超もフジ上層部を反論できない状態にしておいて、大勢で責めたてたのだ。あれが本当に正しき姿勢であったと言うことができるか。

 検察であれ警察であれ、犯罪者相手であっても、そんなことはしない。どんな精神状態であっても、大勢から10時間以上も責め立てられれば、冷静な判断ができなくなるのは当然だ。そんな人権蹂躙状態に誰も気づくことすらできなかった事自体、本来は問題だった。

 あのジャニーズの記者会見にしても、そうではないか。ライブ放送だったのだぞ。大人だけでなく、子どもたちも観ていたのだ。自己主張を展開し、目立つことだけを目的に、聞くに堪えない暴言を投げかけた、すこぶる質の悪い記者はいなかったか。

 すまんが、私にはイジメの構図にしか見えなかった。「悪いことをしたのだから、何を言われても当然だ!」という論調など、まかり通ってはならない。断言するが、それは正義でも、伝えるべき真実でも何でもない。弱い者イジメでしかないのだ。そして、その構図を大人たちだけでなく子どもも目にするテレビで流してしまったこと――これこそが罪だと私は言っている。だからこそ、誰もが感覚を麻痺してしまっていたというのである。

 マスメディアは違和感もなく、あのような記者会見の構図を作り上げてしまった。あのような場では、真実が歪んだ方向へ進みかねないことにさえ、気づけなかったのだ。そもそも、何が正解かなどというものは存在しない。それは、事情や時代背景がそれぞれ異なるからである。ただ、あの記者会見――ジャニーズにしても、フジテレビにしても――あれは間違いであり、テレビでライブ放送すべきではなかった。

 そこにさえいまだに気づけていないのならば、それは私の考えるジャーナリズムとは根本的にかけ離れているのだろう。よいだろうか。私に言わせれば、そんなものは、どこまでいっても「ひと山なんぼ」の、長いものに巻かれる主義にすぎない。

 そもそも記者会見の質問で、何か特別なことがわかったのか。10時間以上もかけ、あれだけの記者が集まって責め立て、新たな真実の一つや二つでも明らかになったのか。考えるまでもない。皆無だったではないか。結局、悪いことをしたのならば責め立ててもよい、という異常な空間でしかなかったのだ。それは、報じる側も、観る側も同じである。

 果たして、示談となった案件を必要以上に報じ続けることに、本当に公益性があったのだろうか。最近では、この「公益性」という言葉も、えらく安くなったものである。

 私は報じ続けることに公益性などなかったと思う。なぜならば、守秘義務がある以上、真実を公にすることができないからだ。

 真実が公にできない以上、どちら側の言い分も憶測が憶測を呼び、歪曲されかねない危うさが生じるのは当然ではないか。

 それは、喋らせるほう、つまりメディア側にも責任が生じることを意味する。加えて、取り上げることで意見が割れ、誹謗中傷が発生しやすいプラットフォームを作りかねない危険性も、本来は考えなければならない。どちらの言い分が正しいかは別として、現にそうなっているではないか。

 それを生み出したのがマスメディアなのに、反論されればムキになり、正義を盾に報じ続けることに、本当に公益性などあるのか。過激なことをもっともっと知りたいと思う読者や視聴者の感情を満たすものが、公益性ではないのだぞ。

「公益性」という言葉の安売り

 いつからマスメディアは、人の人生を崩壊させる鋭利な刃と化してしまったのか。そんな姿勢だからこそ、読者離れが進むのではないのか。炎上型YouTuberを見てみろ。過激さの行き着く先は、さらに過激さを求めることになってはいないか。そして例外なく、真実を、正義を見誤っているではないか。

 マスメディアが作り上げた「中居問題」の是非を仮に説けば、多額の示談金を支払った事実がある以上、中居氏に非があったのは明らかだろう。

 だが、そのトラブルは、当事者たちのさまざまな心境があったとはいえ、すでに示談が成立している。本来であれば、それで終わるべきものだったはずだ。なぜなら、そうでなければ示談の効力が無効化される危うさがあるからだ。

 「どうせ示談しても何も変わらない」という考えが世の中に浸透すれば、被害者が金銭的に泣き寝入りさせられるケースだって、今後起こり得る。だからこそ、示談の効力をいたずらに無効化してはならないのだ。

 もしも互いの主張が異なり、示談が成立していなかった場合を想像してみてほしい。事態は、より深刻化し、悪化の一途をたどっていたのではないか。

 そこで週刊誌が動くのなら、理解もできる。そこに弱者を救うという正義があるのなら、徹底的に取り組むべきだろう。

 だが、現実はどうだ。中居氏は芸能界を去ったにもかかわらず、守秘義務が課された内容にかかわるであろうことを一方的に報じられ、わずかでも反論すれば、今も記事にされ、痛烈なバッシングを受けている。その結果、「いい加減にしろ!」という声が上がるのも当然であり、それが望まぬ二次被害を生み出すきっかけになりかけてはいないか。それでは、関係者が傷つくだけで、誰も救われないではないか。

 芸能人だって人間である。過ちを犯すこともあるだろう。しかし、だからといって、誰かれ構わず罵詈雑言を浴びせ、社会的に抹殺してよい権利などあってはならない。

 私は大勢で批判されている人間を見るとかわいそうだと感じてしまう。実社会においても「もうええやんけ」と言ってしまうし、言うことができる。そもそも主張したいことがあれば、たった一人でも言うことができる。なぜならば、自分という矜持を少なからず持っているからだ。

 芸能人が簡単に消え去ってしまう、現在のマスメディアの報道姿勢には、違和感しかない。

(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)

 商業的報道の権力化が作る未来

沖田臥竜

作家・小説家・クリエイター・ドラマ『インフォーマ』シリーズの原作・監修者。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』シリーズ(サイゾー文芸部)がドラマ化もされ話題に。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

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最終更新:2025/08/08 15:00