CEO射殺に震え上がった米企業 役員守るための支出トップはメタで年間37億円超
ニューヨークでの医療保険会社幹部の殺害事件は、米国のビジネス界に衝撃となって広がった。襲撃されないために本社を閉鎖したり、自社のホームページから役員の写真を削除する動きが広がった。要人警護の専門会社には企業から警備の依頼や強化を求める電話が殺到し、産業界は一時、パニックに陥った。
容疑者は保険業界に不満 NY市長は信用失墜恐れる
事件はニューヨーク・マンハッタンの中心地で起きた。12月4日午前6時45分ごろ、日本人の宿泊者も多いヒルトン・ミッドタウンの北側の路上で、ユナイテッドヘルス傘下の保険会社ユナイテッドヘルスケアの最高経営責任者(CEO)ブライアン・トンプソン氏が男に拳銃で撃たれ死亡した。9日、事件に関与したとしてルイジ・マンジョーネ容疑者(26)がペンシルベニア州で逮捕された。保険業界を批判する3ページの文書を持っていた。
事件発生直後、ニューヨークのビジネス界のトップが集う非営利団体「パートナーシップ・フォー・ニューヨークシティ」の責任者であるキャシー・ワイルド氏の元に、元警察官であるエリック・アダムス市長から電話があった。市長は「事件は明確にトンプソン氏を狙ったものだ」と伝え、会員である有力経営者に注意を促すよう求めた。
犯人が逃走している最中の市長のこうした行動は極めて異例だ。世界のビジネスの中心地としての「信用の失墜」を市長は真っ先に恐れた。
本社を一時閉鎖、ホームページから役員情報を削除
企業幹部の警備を行うグローバル・ガーディアンには、事件発生後の数時間で47の企業から連絡があり、警備と警備強化の要請を受けた。雑誌フォーチュンが選ぶ米有力企業500社「フォーチュン500」の約80%の警備を担うといわれるアライド・ユニバーサルのニューヨークオフィスの電話も、この日は鳴りっぱなしだった。
警備会社が企業トップの警備をセールスする時、企業関係者から「押し売り」とさげすまされることが多い。しかし、事件を境に警備会社は「三顧の礼」で招かれる存在となった。
襲撃されたユナイテッドヘルスケアと同業のメディカは事件を知り、ミネソタ州ミネトンカにある本社など6つのオフィスを一時閉鎖した。同時に幹部の顔写真や経歴などをホームページから削除した。襲撃者から幹部を守るためだ。
医療保険業界ではアンセム・ブルークロスを傘下に持つエレバンス・ヘルスとエトナを所有するCVSもホームページから幹部の写真を削除している。
業界が素早く動いたのは、医療保険についての米国市民の不満が渦巻いていることを自覚しているからだ。
犯行憎むも若者の41%が「容認できる」
米国では、医者に通って医療保険で診療代を払おうとしても、保険会社が拒否するケースが当たり前のようにある。信用調査会社の調べでは、拒否率はこの3年で約30%も増加しており、保険会社は市民から厳しい視線を向けられている。
エマーソン大学の調査では、若者の約41%がトンプソン氏暗殺を「容認できる」と答えている。マンジョーネ容疑者は文書で、米国民の寿命は伸びないのに保険会社だけがもうけていることを非難しており、殺人は許せなくても犯行の背景は理解できると多くの市民が考えている。
「フォーチュン500」に名を連ねる製薬会社が薬価を引き上げたところ、取締役会のメンバーや幹部らに脅迫電話が相次いだことがある。今回の事件の前から、事件を予測できる環境は整っていた。
暴力という「歪んだ怒り」を感じ取っているのは医療や保険、薬剤業界だけではない。企業幹部やその家族への「標的型攻撃」はこの5年で急増し、株式市場の指標である「S&P500」に上場している企業が役員警備のために使う費用が増加している。2023年は2021年に比べて2倍になった。
「否定的な感情はザッカーバーグ氏に向けられる」
米国企業の中で最も役員の安全のために費用をかけているのは、フェイスブックなどを運営するメタだ。
調査会社エクイラーのまとめによると、2023年は2438万ドル(約37億8000万円)を支出している。このうちザッカーバーグ氏個人の警備費用は943万ドル(約14億6200万円)だ。個人的な旅行、複数の住居、家族の警備などをカバーしているという。
今年初めの年次株主総会でメタは、この費用について「ザッカーバーグ氏はメタの代名詞であり、会社に対する否定的な感情はザッカーバーグ氏に向けられる」と説明し、カリスマ経営者の安全を維持することの重要性を強調した。
ニューヨーク・ポストは2020~22年の3年間のザッカーバーグ氏の警備費用は4300万ドル(約66億6500万円)にのぼると報じている。警備費用は他社に比べて圧倒的に多い。
2023年の役員警備費の2位以下を見ると、2位はグーグルを傘下に持つアルファベットで677万ドル(約10億5000万円)、3位は日本でも何かと登場する投資ファンドのブラックストーンで457万ドル(約7億900億円)、4位はカジノ最大手のラスベガス・サンズで308万ドル(約4億8000万円)、5位はクラウド大手のオラクルで304万ドル(約4億7000万円)、6位はアマゾンで266万ドル(約4億1000万円)、7位はウイルス対策ソフトのパロ・アルトで166万ドル(約2億5800万円)となっている。金額を見ても米国の企業がいかに役員襲撃を恐れているかがわかる。
しかし、米国務省外交保安局などは、企業を標的にする組織的なテログループは米国にほとんど存在しないとみている。オンラインでの個人の暴言が同じ考えを持つ個人のテロリストに影響を与えことが企業の脅威になるという。
米国企業は「孤独なテロリスト」対策に巨額な出費をしていることになる。
(文=言問通)