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教育ジャーナリスト・後藤健夫の「Fランクから消滅大学になる日」教育ビジネス論#4

「知の総和=数×能力」って本気? 文科省の解像度の低い議論はツッコミどころ満載

大学の未来は不確実性が高く、従来の枠組みでは対応しきれない可能性がある。単に大学の数を維持するのではなく、「豊かさの総和」を意識した高等教育の在り方が求められている。今後、日本の大学がどのように変わっていくのかーー?

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人口減少の中で成功例が見いだせない(写真:GettyImagesより)

 2024年の出生数が70万人を下回るだろうとの予測がある。2022年には80万人を下回った。この数年、減少幅が大きくなっている。当初、コロナ禍の影響があったと言われたものの、感染が収まっても回復傾向にはない。つまり、2040年以降も、人口減にともない大学入学者の激減が続くと推察される。

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 文部科学省は2018年11月に「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1411360.htm)といった答申を出しているが、当時も「これは2030年代に向けた推測ではないか」「20年以上先のことを推測できるほど不確実的な要素が少ないわけではない」と批判的にとらえていたが、今、この答申を文科省の職員や大学関係者が読んで、どのように思うだろうか。

 果たして、2040年の高等教育の姿をどのくらい描けていただろうか。

 出生数の大幅な減少、AI(人工知能)の急速な発展、自然災害、エネルギー問題、世界情勢など、当時は推測できていなかった要素が多い。いまや不確実な要素が多く、10年先の「未来予測」が困難な時代である。

 特に、教育においてはAIの進化、それにともなうEdTechの発展の影響は大きく、少子化による教員不足を補うために期待も大きいところでもある一方で、学習者はなにをどのように学ぶべきかが捉えにくいところだ。

 文科省は大学の在り方や、10年に1度と言われる学習指導要領の改訂に向けた教育課程についての審議を進めているが、果たしてその議論が有意義なものなのか。

 中央教育審議会大学分科会で高等教育の今後の在り方を議論しているが、今年1月の資料に「知の総和(数×能力)」(参考:https://www.mext.go.jp/content/20250128-mxt_koutou02-000039883_5.pdf)といった概念を示している段階で議論の解像度の低さ、かけ算の概念に対する理解不足が伺えて心配になる。

「知の総和」とは、人の「数」を確保して、より高い水準の教育により「能力」を高めることで総和を上げていこうということのようだが、あまりにも解像度が低い。

 人口減の中で減少分を補うだけの人材をどう確保するのだろうか。移民で補うのだろうか。この議論がきっちりとできているわけではない。

 そもそもこの「人」とは誰のことなのか。生産力のある人なのか。日本の生産年齢人口の割合はOECD加盟国の中で特に低い。それを上げるためには出生数を増やさないといけないし、上がるまでには15年以上の時間がかかる。

「数」が増えないとなると知の総和を上げるためには「能力」を上げるしかないわけだが、果たしてこの能力とはなにか。そもそも能力はアカウンタブル(数値化できる)なものではないから掛け算には使えないことは、小学生でも知っていることだ。

 能力の定義もできていないだろう。そして能力をアカウンタブルなもので示せるのであれば、教育の議論はとても楽になる。それが未だにできないのだから困っているのだ。

 AIが進化する中で「より高い水準の教育」とはなにを意味するのか。OECDのPISA調査からわかるように、日本の教育の「平均値」は高い(国立教育政策研究所「OECD生徒の学習到達度調査(PISA)」より https://www.nier.go.jp/kokusai/pisa)。この平均値を上げようとしているのか、特定の人材の能力を上げようとしているのか、そして、人口減の中でその特定人材の能力はどこまで高めたら良いのかは不明だ。

「知の総和」を「数×能力」と表す審議会の知的水準こそ、問われていないか。

 審議会のメンバーには研究者が何人もいる。わからないことにははっきりとわからないと言うべきだ。これは研究者にとって大事なことである。少なくとも日本の大学はエリートのものではなく万人に開かれた「ユニバーサル段階」にあるのだから、文科省が考えるべきことは「知の総和」ではなく「豊かさの総和」ではないのだろうか。

「数(人)」、「能力」はなにを示しているのか。「人」とは誰なのか。「能力」が欠ける「人」のことをどう考えているのだろうか。

 このように、現状認識が甘く解像度が低いようでは、財務省から新たな予算を引き出すことはできないだろう。教育にお金が回らないとなると「人」を確保して「より高い水準での教育」は難儀になるのではないか。

 つまり、大学の「在り方」について解像度を上げて議論できないのだから、そもそも見通せる未来は限定的であり、そんなに確実ではないのだ。教育そのものの未来予測はそんなに簡単ではないのだ。

 この高等教育(大学)の在り方によって「大学進学率」は左右されるだろう。大学の在り方に魅力がなければ大学進学率は下がる。もちろん魅力的であれば進学率は上がる。ただ、ここでも家計の問題は出てくる。大学の高額な学費を支払うほどの魅力があるのか。学費負担を社会保障によって補えるのか。

 大学入学者を増やして将来的な定員余剰を解消する方法のひとつとして、大学進学率を上げることは考えられる。しかし大学の在り方自体が不確実性であり、教育の未来予想が困難な状況では、その効果がどれほど期待できるかは不明である。期待できないのであれば、今後、大学は定員余剰と向き合うしかないのだ。

(文=後藤健夫)

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後藤 健夫

コラムニスト/教育ジャーナリスト/大学コンサルタント
南山大学を卒業後、学校法人河合塾、早稲田大学、東京工科大学等に勤務。現在、大学の募集戦略支援や高校の大学進学支援、「探究学習」のカリキュラム・教材開発、授業改善等に従事。日本経済新聞に「受験のリアル<大学編>」を連載するなど、コラムや記事を執筆。

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後藤 健夫
最終更新:2025/02/10 19:52