「女性セブン」の福山雅治インタビューが示した週刊誌報道の大きな役割

「何年も前のスキャンダルで芸能人がテレビから消えるのは、もう嫌じゃないですか」
「女性セブン」の編集長だった私の大切な友人は、そう言っていた。本当に大切な友人のひとりだった。同時に屈強な精神と肉体の持ち主だった彼は、死とは極めて縁遠い存在だった。この春、もし彼が突然の訃報に見舞われなければ、経歴、実績、人間性、人脈などを総合的に考えて、これからのメディア業界を背負う人物になることは間違いなかった。
【中居問題】浅はかな正義
所詮、マスメディアはヒット・アンド・アウェイである。それが正しいか否かという問題ではなく、そういう仕事をしているのだ。報じることで恨まれることもあれば、誰かを救うことだってある。彼が小学館の歴史上の最年少で週刊誌の編集長になったのは、伊達ではなかった。責任感のある男だった。情熱のある男だった。そして信用できる男だった。その彼が「女性セブン」の編集長として残した実績は、今もなお受け継がれている。
なんなのだ。フジテレビの第三者委員会。何の効力があるのだ。仮にそんな組織に人を断罪する効力があるのなら、断言するが司法なんていらない。
そもそも、いやらしくないか。第三者委員会の調査報告書では、自ら襟を正すかの如く、わざわざ他の事例を掘り起こしておきながら、そこでは匿名で記載された人物の名前が、世間へと流出するという事態が起きた。その管理体制はとんだザルではないのか。
世論への影響を考えて、穏便に処理するべきかどうかの判断もできないのだ。そうではないか。ネット民の中には言うまでもなく思慮浅く、無責任な人間が少なくない。だが、それゆえ、個人の特定が大好物だ。その結果として、無用な誤解や混乱を招きかねない。そうした背景を考えた時、第三者委員会は調査報告書を世間に公表すべきではないし、そもそも報告先が違うのだ。
もし本当に何らかの法に抵触する可能性があるのならば、その判断は司法へ委ねるべきではないのか。無論、現状のコンプライアンスに関するすべての問題を、法の基準だけで測ることができない側面があるのも確かだ。しかしながら、だったらなおのこと。そこに良識がなければならないのは当然である。本当に、何年も、あるいは何十年も前の出来事を今になって取り上げるべきなのか。単に火をつけて一方的に焼き尽くすことがマスメディアの役割だというのならば、もはや「公益性」などという言葉を持ち出すべきではない。
私も、週刊誌やネット媒体で仕事をさせてもらっている。だからこそ、「たかが週刊誌」だの「ネット媒体ごとき」だのと、実情を何も知らない人間に言われれば、決して良い気はしないし、軽んじられて嬉しいわけがない。どんな職業であれ、そこで一生懸命に仕事している人々がいるのだ。それをバカにする権利は誰にもない。
だからといって、マスメディア側が脅威の対象になってよいという理屈にはならない。もう一度言う。所詮、マスメディアはヒット・アンド・アウェイだ。攻めることもあれば、報じることで事態を封じこめることだってできなくてはならない。なぜならば、それが報道という手段を通じたメディアコントロールだからだ。
有名人の名前がネガティブに報道されれば、社会的制裁へとすぐさま発展しかねない中で、先日、「女性セブン」が行った福山雅治氏の独占インタビューは見事であった。今の世の中、一度“火がついた”情報は、真実かどうかに関係なく、炎上が沈静化するまで暴走を続ける。だからこそ、福山氏のインタビューを掲載することで事態を鎮静化させてみた「女性セブン」の手腕は評価されるべきだと思う。
このような風潮の中では、ネガティブな情報を報じることによって他人を社会的に抹殺することなど、すまんが誰にでもできてしまう。ネガティブな情報を扱いつつも、「攻める」よりも「守る」報道をすることのほうが、はるかに困難であることは当然のことだ。
詳しく書くことはできないが、一連の中居正広氏の女性関係トラブルを「女性セブン」が最初に報じ、あのような論調にした背景にも、そうした判断があったのだ。
第三者委からヒアリングの協力要請が福山氏にあったことは、「女性セブン」が報じたことで明らかになった。もしも、別のメディアが報じていれば、また違った論調が生み出され、福山氏が炎上していた可能性だってある。だからこそ、福山氏サイドも「女性セブン」を信頼してインタビューに応じて、自らの言葉で誤解が生まれないようにしてみせたのだろう。
確かにだ。中には本当に勘違いしている芸能人もいる。堂々と、仕事場で反社会的勢力との関係を口にしたり、自らの拙い言動によって痛い目に遭ったにもかかわらず、意趣返しのごとく、自身が主演する映画の試写会で、特定の媒体だけを出禁にしてみたり。そうした態度をとるからこそ、報道側がその人間を「刺し込む」ときは容赦がなくなるのだ。
私だって、そういう相手がスキャンダルを書き立てられたら、ザマアミロと思うだろう。たとえば、ある俳優が起こしたトラブルに対して出した、大手芸能事務所からの非公開の謝罪文だって持っている。だが、そのトラブルや謝罪内容を記事にすることはない。なぜだかわかるだろうか。当の俳優が仮に反省しているならば話は別だが、反抗的な態度を取りながらも記事化しないのは、報じれば、その俳優の仕事にかかわる他の人たちに迷惑がかかるからだ。
それが本当に正しいかどうかは別として、この世界に生きる私なりの配慮だ。そうした配慮こそが、「どのように報じられるべきか」「そもそも報じるべきかどうか」といった公正かつ公平な判断につながるのではないか。なぜなら、私は感情に流されていないからだ。
ただ単に何でも燃やせば良いというのはジャーナリズムでも、スクープでもなんでもない。それが現代における公益性というのならば、公益性という漠然としたモラルも落ちたものだと言わざるを得ない。
(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)
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