松本人志、沈黙の2年を破る!『DOWNTOWN+』でテレビに背を向けた視聴者に挑む

もしかするとダウンタウン・松本人志の空白の2年間は、この日のためのものだったのかもしれない。そう思えるほど、『DOWNTOWN+』が始まるのを多くの人が待ち侘びていた。
この日、何だったら私は晩ごはんをたらふく用意してもらい、子供のように食べきれないくらいのお菓子も買い込んでいた。
松本人志の「逆襲」が始まった!
確かに幼き頃、土曜日の夜、テレビに夢中だった時代があった。楽しみにしていた時代があった。それがどうだ。今の時代、大抵の人間がSNSにどっぷり浸かり、人の不幸に歓喜しているではないか。
哀しいかな、テレビなんて観る機会も減少してしまった。それが今の現実である。コンプライアンスだの、スポンサーだの、楽しみにしている視聴者をそっちのけにして、テレビ業界は気を使う場所すらも見失ってしまっている。
かつて、誰もがテレビに夢中だった時代。あの頃、テレビの送り手たちは、スポンサーがどうの、イメージがどうのと意識していただろうか。もっと単純ではなかったか。おもしろいかおもしろくないか、それだけではなかったか。
週刊誌が、その送り手たちの揚げ足取りを面白おかしく書くのは、今も昔も変わらない。当たり前ではないか。それが仕事だからだ。それをバカみたいに騒ぎ立てているのが、ネット民であり、バカなテレビ局がそれに敏感に反応し、スポンサーの顔色を窺っているのである。
視聴者を置き去りにして。「テレビマン」だなんてもう偉そうに言わないでほしい。視聴者もタレントも守ることができずに、何が「テレビマン」だ。
ずっと嘆いていろ。ずっとネットの声にびくついていろ。自分たちの無力さや不甲斐なさに気づくこともできず、ずっと時代のせいにでもしていろ。ただし、もう威張るな。テレビ局で働いていることを偉そうにするな。何の力も権限もないのだから、横柄な態度をもう取るな。
最近のテレビ局の姿勢を見ていると、そんな言葉をぶつけたくもなる。なぜなんだろう。少しばかり週刊誌に攻め込まれれば縮み上がるくせに、なぜ悪しき風潮だけは未だに受け継がれているだろう。変わり身の速さは、キャリアピークのウサイン・ボルトですら、びっくりするぞ。
そんな内弁慶で作った番組の何が面白いのだ。だから素人が作ったYouTubeの前に惨敗しているのだ。YouTubeを観ていてわからないか。面白いところに人は集まり、人が集まったところがビジネスとなるのだ。
そんな当たり前のことさえわからないテレビマンたちは、ずっと保身を続けて、他人事みたいな顔をして、嘆く表情だけは一丁前な顔をして、簡単に人も組織も裏切ればいいのだ。
松本人志が示した“芸人魂” そして私は一人、ペンを武器に戦う
ただ、松ちゃんは違った。これまでテレビ局に貢献した功績などきれいに忘れ去られ、時代の犠牲になろうとしても、独自の道を模索し、再び公の場に復活した。私はそれこそが“芸人魂”だと思う。
長年、王者として君臨し続けた者の意地だったと思う。口に出したいことなど腐るほどあったはずだ。それでも、松ちゃんがこだわって生配信で語ったのは、最終的に「お笑いが好きだ」という言葉だった。愚痴や不満を並べるわけでもなく、同情を誘ったり憐れみを求めたりすることもなく、卑屈になったり、吊るし上げられて謝罪することもなく、生還してきたのだ。
生配信に姿を見せた松ちゃんに、彼を待っていた誰もが熱いものをこみあげてきたのではないか。少なくとも私は、感極まって必死に泣くのを堪えている松ちゃんの姿を見て、胸が熱くなることができた。
物書きとして、ずっと松ちゃんを応援してきて本当によかったと感じた。
当たり前のことだが、立場によって人の意見は異なる。私もそうだ。情報を扱う仕事をしている。それも唯一無二の仕事だ。世の中で話題になっているニュースの大半で、私は音も立てずに暗躍している。
誰が「インフォーマ」を生み出したと思っているのだ。アカデミー賞監督の藤井道人監督から「沖田さんをモデルにした情報屋のドラマを作りませんか!?」と言われて、爆誕させたのが“インフォーマ”だ。
すべてがフィクションでもなければ、ノンフィクションでもない。ただ、いつも言っているのだが、本当にすごい人間は、容易に「すごい」と見破られることがないからこそ、すごいのだ。承認欲求だとか、有名になりたいだとか、私はそもそもそんなもの皆無である。
ただ、ネット社会である。ある程度の影響力を見せつけなければ仕事にならないのも事実である。そのうえで、私の物書きとしてのペンを握る矜持(きょうじ)は、ただ是非だけではない。
気に入らないのだ。大勢で弱者になった側を吊るし上げるのが、私の性分として気に入らない。それだけではない。私は誰に憚ることなく、ひとりでも「おかしい」と感じたものを「おかしい」とはっきり言えるのだ。だからいつも負け戦ばかりだ。ジャニーズ問題しかり、中居正広問題しかり、フジテレビ問題しかり。でも、ダウンタウン・松本人志は違った。
あれだけ痛烈にバッシングされても、不死鳥のごとく甦ってみせたのだ。実社会において「悪くない」と思っているなら、簡単に謝るべきではない。何かと言えば、禊(みそぎ)だといって、YouTubeで謝罪動画をアップしようとする。あれほど滑稽なものがあるだろうか。意地があるなら貫いてほしい。大抵の場合、個人の私的な問題に対して、説明責任なんて存在しないはずだ。
「これは広告をつけていません!」
黙れ、黙れである。その言葉自身が、私からすれば不謹慎なのだ。ましてや記者会見で騒いでいるバカな記者たち。そんな者たちが主人公になれることは絶対にない。何かを成す者、成そうとする者は、時に傷つき、時に打ちのめされ、時に涙を流すものなのである。
吊し上げる者たちと、戦い続ける者たちへ
「説明義務を果たせ!」「逃げずに記者会見をやるべきだ!」とスキャンダルのたびに騒ぐ人々の顔を見てみてほしい。私に言わせれば、あれほど醜い表情はない。歪んだ正義を盾にして、内心はお祭り騒ぎでほくそ笑んでいるようではないか。
言い返すことのできない相手を大勢で吊るし上げる――そんなことを、私はこれからの世の中を生きる子どもたちに見せるべきではないと思っている。ああいう姿がいじめの誘発につながる一因なのだ。
当然ではないか。正しいと言われる側が、みんなで汚い言葉で罵ってもいいという図式を大人たちが見せているのだ。自身が放つ言葉の影響までを深く考えて質問できる記者はほとんどない。せいぜい「他より変わった質問」をして、自ら悦に浸っているだけだろう。そんな会見など、そもそも必要ないのだ。
彼らは、どんな気持ちで松本人志の復活を見ていたのか。『DOWNTOWN+』の有料登録者は何十万という。あれだけ声高に松本人志を誹謗中傷していた勢力はどこへ行ったのか。
すべてがそうなのだ。文句を「正義」や「勇気」にすり替え、悪意なく無責任に振る舞う人種に、気概などない。大勢の中でしか文句を言えないのだ。妬み嫉みという捻くれた副産物を携えて、一人で戦う勇気などそもそもないだろう。
私はいつだって一人で、ペンだけを武器に戦ってきた。それが世に立ち続けるということだ。楽しむ時はみんなで、戦う時は一人で――それが私のモットーだ。
また、私は既存の公益性やジャーナリズムに縛られて生きてはいない。いつだって弱者の側で戦うことが、私のジャーナリズムなのである。冷静に考えて、それこそが格好いいではないか。勝てなくてもだ。私の筆で、一方的な流れから少しくらいは逆襲のきっかけくらいは作ってきたつもりだ。それこそがメディアコントロールなのである。
『DOWNTOWN+』の中で、久しぶりに映画『大日本人』も観た。めちゃくちゃ面白かった。大笑いした。それも、松本人志が復活してくれたおかげだ。
ただそこに松ちゃんがいるだけで、安心できる。頬が緩むのである。気づいたときには、空白の2年間なんて何かの間違いだったのではないかと感じるほど、もう松ちゃんが目の前にいた。
もちろん私は年間会員である。暇さえあれば、『DOWNTOWN+』を観て、空白の2年間を埋めていきたいと思っている。
(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)
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