広瀬すずを巡って小林秀雄と中原中也が三角関係に…大正ロマンが香る映画『ゆきてかへらぬ』の豊穣さに酔う。
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小林秀雄、といえばやたら難しい文章を書く大評論家というイメージで、大学入試にその小林秀雄の随筆が出題されると受験生を大いに苦しませる、ということで知られている。そんなこともあり、小林秀雄といえばお堅いイメージを筆者も持っていたのだが、その小林秀雄が夭折の天才詩人、中原中也と親友だったばかりか、ひとりの女性をめぐって三角関係にあったとは、この映画を見るまで知らなかった。
その映画とは、2月21日公開の『ゆきてかへらぬ』。小林秀雄を演じるのはNHK連続テレビ小説『虎に翼』での好演も記憶に新しい岡田将生、中原中也はNetflix ドラマ『First Love初恋』で佐藤健の若き日を演じて脚光を浴びた木戸大聖、そしてふたりが愛した女優、長谷川泰子を演じるのは、2015年公開の映画『海街diary』で注目されてから10年、Netflixドラマ『阿修羅のごとく』も話題を呼んでいる広瀬すずである。
この映画は、異端の巨匠・鈴木清順監督との名コンビで知られる脚本家・田中陽造が手掛けながら長年映画化が実現しなかった幻の企画を、81年の『遠雷』や09年の『ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』で数々の賞を受賞しながら本作が16年ぶりの新作となる名匠・根岸吉太郎監督が実現させたものである。
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大正時代にこんな素敵な愛の形があったのかと思わされる雰囲気やファッションが魅惑的で、天才気質で繊細な中原中也を演じる木戸大聖、端正な美しさで小林秀雄とはこんなイケメンだったのか?と驚かせる岡田将生はもとより、ふたりの天才に愛されながら徐々に精神を病んでいく長谷川泰子を演じた広瀬すずの美しさは抜群で、本作で女優として新たな高みへ到達したのではないかと思わせるほどだ。
ダンスホールで少女のようにはしゃいで見せたかと思うと、柱時計の音で気が狂いそうになるといって時計を縁側から投げて壊すなどの精神的な危うさで男性ふたりを振り回す長谷川泰子という女性は、女優として撮影所に出入りしながら、さまざまな文学者と交流したことで知られており、生まれたのは1904年(明治37年)。1993年(平成5年)に88歳で亡くなっている。
長谷川泰子の回想を村上護という文芸評論家が口述筆記でまとめた書物があると知り、読んでみた。タイトルは映画と同じ『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』。1974年に講談社から刊行され、2006年に角川ソフィア文庫から『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』のタイトルで復刊されている。
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当時京都で暮らしていた中原中也が長谷川泰子と同棲を始めたのはまだ中原が中学生の頃。当時から中原中也はもう女郎買いなどしていたというから、その早熟さには驚きである。中学生といっても旧制中学なのでいまの中学生の年齢とは違って、同棲を始めたのは17歳。長谷川泰子は3歳年上で20歳だったようだが、それにしても若い。
きっかけは所属していた劇団がつぶれ、行くところがなかった泰子に中原が「ぼくの部屋に来ていてもいいよ」と言ったことだったという。代々開業医の名家の生まれだった中原は実家から仕送りをもらっていたようである。のちに泰子の弁として、中原との最初の経験は「強姦されちゃったようなもの」だったと雑誌に書かれたそうだが、『ゆきてかへらぬ』ではその経緯をこう説明している。
「ほかの言葉でうまくいえなくて、強姦されたといっちゃったけど、考えてみれば男と女がひとつ部屋で寝泊りしていたのですから、強姦されたというのはおかしいし、肉体を求められても仕方のなかったことかもしれません。私はその頃はまだ性に無頓着で、下宿においてやるよという親切心だけを信じて、そこへ行ったんですから、中原の求めるままに、身体をまかすのはつらく感じました。自分の生活があまりにみじめに思えて、気の滅入ることが多くありました。」
奇妙な三角関係で結びついていたのは男同士かも?
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その後、上京した中原と文学について議論する相手として意気投合し、中原の家に出入りするようになったのが小林秀雄だった。やがて小林は中原の不在時にも家に来るようになり、小林と泰子は中原に内緒でふたりで会うようになる。小林は泰子にこんなことを言ったという。
「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」
一般的には、中原中也は感性的な人間で、小林秀雄のほうが思想的な人だと思われているから、「ぼく(小林)とは思想が合い、中原とは気が合う」と言いそうなものだが、それが逆なところが面白い。やがて小林は泰子に「一緒に住もう」と言い、泰子は中原の家を出て小林との生活を始めるのだが、中原はその引越しの手伝いをしたばかりか、引っ越し先の泰子のもとをたびたび訪ねるようになる。
奇妙な三角関係の始まりである。
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やがて泰子は精神のバランスを崩していくが、中原と小林もひときわ繊細な精神の持ち主であり、3人の関係は危うい均衡の上に成り立っていたようだ。あるいは、華やかに見えて次第に戦争へと傾斜していく大正という時代そのものが、真実を見通す感性を持ち得た者にとっては正気ではいられない世相だったのかもしれないが……。
ともあれ、この『ゆきてかへらぬ』という物語は泰子という女性をめぐる小林と中原の関係の話のようでいて、実は泰子を介して濃密な関係を築いていたのは小林と中原だったのではないかという気がしてならない。
小林が中原と並んで座り、「泰子は納豆の粒の数を数えて、いつも同じでないとおかしくなるんだ」と打ち開けるシーンは同じ女性を愛し、同じ女性に手こずらされたふたりの奇妙な同志愛のようなものも感じさせる。
小林と中原の関係にBL的なものを読み取ることも可能なのではないか。
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同時に、まだまだ女性の地位が低く、女性の意思が軽んじられていた時代に、男たちの間を渡り歩きながら女性として自分の在り方を貫き、自由に生きようとした長谷川泰子という女性の格闘の記録としても読み取ることができそうだ。
本作を見ると100年前の男女の恋愛が急に身近に感じられる。マッチングアプリに勤しむ令和の若者にとっても本作に描かれた男女関係から感じ取れるものは多いのではないだろうか。
大正ロマンと文学とラブストーリーの芳醇な香りに酔わされる本作は、文学好きならずとも十分に楽しめるに違いない。
(文=里中高志)
『ゆきてかへらぬ』
2月21日(金)より、TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
監督:根岸吉太郎
脚本:田中陽造
出演:広瀬すず、木戸大聖、岡田将生、田中俊介、トータス松本、瀧内公美、草刈民代、カトウシンスケ、藤間爽子、柄本佑ほか
配給:キノフィルムズ
公式HP:www.yukitekaheranu.jp
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公式Instagram:https://www.instagram.com/yukitekaheranu_movie/
©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会