絶対に泣ける小説はこうして書き上がった…『木漏れ陽』が超えたあの情熱

去年の暮れから書きまくっていた。当たり前だが、物書きは書いてなんぼの商売である。小説『木漏れ陽』(角川春樹事務所)を皮切りに、ここから小説3冊、ノンフィクション1冊の怒涛の出版ラッシュが始まる。
物を書く上で、私には師はいない。すべて自分で切り拓いてきた。それで、ここまでやってきたのだ。ペンを武器に世の中で戦おうと思い、ただひたすら書き続け、別名義や共著、ゴーストライターとしての著作、それにマンガの原作を数えると、おそらく『木漏れ陽』で24冊目の出版になる。
もう24冊目にもなると、見事なくらい誰からも「おめでとう!」のLINEすら来なくなるが、それは逆に言えば、私も一人前に小説家の仲間入りを果たしたという証明ではないだろうか。
今回の作品の発案は、今年、日本アカデミー賞を獲得した映画監督の藤井道人氏である。藤井監督から「沖田さん! こういう泣ける小説を書いたらどうですか?」と言われたのが始まりだった。ただ、何作出版してきても産みの苦しみというのはあって、書いている時は、必ず熱が出る。今ですら発熱している中でこのコラムを書いている。そして、『木漏れ陽』を書き上げた時には、すぐに映像関係者に読んでもらい、映像化が決定することになった。
なんと表現すれば良いだろうか。その昔、ノートに書いた物語を、折り畳みの携帯を使い、携帯小説のコンテストに投稿していたのが、えらく懐かしく感じることができる。あの頃の小説家になりたいという情熱を、自分自身でずっと超えたいと思ってきた。
そして今、はっきり言えることは、『木漏れ陽』という小説を書き上げる中で、その情熱を超える瞬間を迎えることができたということだ。
私にとって小説とは、十万文字の戦いである。
何冊書いても、「もう書けないのではないか」という不安が付き纏う。だけど、私は知っているのだ。悩み苦しみながらも、書き上げることができるという絶対的な信頼を、私が自分自身に寄せていることを。
本気になれば、多分、年間で6冊は小説を生み出すことができるだろう。デビューまでの十数年、私は独学でそれだけの修練を積んできた。
私が10年前にデビューしたとき、バカなノンフィクションライター風情から、なに目線か知らないが、「ヤギが食べるくらい書いてください」と言われたし、私の小説を読んだ読解力の皆無のライターからは、「なぜ関西人は笑いを入れたがるんでしょうね」と言われたこともあった。すまん。西岡某と鈴木某のことである。その時点で、私は彼らより高いレベルで書いているという自負もあれば、彼らが第一線のノンフィクションライターと言われている時点で、第一線を抜くのは容易いと思っていた。
現にデビューしてから、一瞬で私は彼らを抜き去ってしまった。はっきりと言いうが、小説はノンフィクションライターが書けるものではない。文芸こそが、今も昔も物書きの最高峰という想いが揺るぐことはない。小説が書ければ、何だって書ける。私はその芽を、その情熱をクサすことなく、育ててやろうと考えたと思う。
ところでだ。彼らはしっかりと原稿を書いて、仕事できているのか。すまないが、私の背中すら見えないだろう。こういうことを言われるのは、言われるだけのことをしたからだ。若い芽はどの世界でも育ててやるのが発展につながる。それができない人間は、私に言わせれば僻みや妬みの塊でしかない。それでメシが食えるのならば、どれだけ過去に胡座をかいてきたかという話だ。
角川春樹さんからの評価
私の戦いは、いつも私の中にあった。見ている目線の先が違うのだ。他人ではない。私の関心は、「これまでの私」を超えられるかどうかでしかなかった。
良いか。『木漏れ陽』の発売元の代表である角川春樹さんから、この作品を読んでなんて言われたと思う? 「『ブラザーズ』は面白かったが、『木漏れ陽』は面白いだけでなく、胸に突き刺さった」と言われ、挙げ句、すぐに映像化も決めてきたのだ。
関西人はすぐに笑いを入れたがる、ヤギが食べるくらい原稿を書けくらいのことしか言えずに、同じ領域に辿りつけると思うか。根本的に経験値が違うのだ。
私から彼らに助言してやるとすれば、まずそういったことしか言えない人間性を直した方がいいぞということだ。それがわからないうちは、書き手として、同じ土俵で語ることができない。嫌味や文句を言いたいわけでもない。それを受け止めて、作家として私くらい成長してほしいのだ。
本当にすまない。走り抜いていった痕跡すら見えないくらいまで、軽く追い越してしまって……。まあ、彼らは私が提供する情報に散々世話になってきたのだ。ご愛嬌と思って、クスッと笑ってほしい。売れた人間から、それまでその人間を邪険にした者たちがキツイことを言われるのは、世の常なのだ。
ただ、私はこれくらいで「売れた」なんて思っていない。それを『木漏れ陽』で証明したいと思っているのだ。『ムショぼけ』も『インフォーマ』も私の中では大切な作品だ。それまでに書いてきた『忘れな草』や『死に体』だって、その想いは変わらない。
だけど『木漏れ陽』は初めから、泣かそうと思って書いてきた。世界観にリアリティがあって、面白く、なおかつ、最後には泣ける物語を私は書くことをモットーにしていた。それが文芸の醍醐味だと思っていた。
『木漏れ陽』を第一弾として、年内に第二弾、第三弾と小説を出版する。そうこうしているうちに、私の十八番である小説『ブラザーズ』でも新たなメディアミックスを発表することができるだろう。
それだけではないのだが、それはおいおいリリースしていきたいと思っている。
いつも超えていくのは、過去の自分自身だ。『木漏れ陽』は、これまでの作品を超えることができたと思っている。どの層にも共感できるように仕上げた。
このコラムを読んで、すげえプロモ原稿と思われるかもしれないが、こんな原稿を書く小説家が他にいるか? いないだろう。自ら「面白いので読んでください!」なんて言うのが似合わないことは、私自身が一番知っている。コラムも文芸も、唯一無二。その書き手しか表現できない世界観があるからこそ、面白いのだ。
「もう少しちゃんと宣伝してくださいよ!」と関係者の方々からお叱りを受けそうだが、黙らっしゃい。最後に決めるのが、私である。
小説『木漏れ陽』絶賛発売中である。月並みな末尾で、すまぬすまぬである。
(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)
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