井上尚弥は「地上波ナシ」が当たり前に W杯、五輪、大谷翔平…スポーツがテレビで見られなくなる日

最大11連休だった今年のGW中、スポーツ界の話題をさらったのが井上尚弥の世界戦。ランキング1位の挑戦者を8ラウンドKOで退け、77年ぶりに世界戦最多KO記録を更新したが、残念なのは「世界最強」と称される勇姿が簡単には見られないことだ。
一般人がもっとも簡単に“観戦”する方法といえばテレビ局による放送だが、それが年々なくなっているのだ。スポーツ中継の裏事情を、週刊誌スポーツ担当記者が明かす。
「高校時代に史上初のアマ7冠を達成し、将来を嘱望されていた井上は、TBSがデビュー戦を中継。その後世界戦はフジテレビが中継してきましたが、2021年12月の試合が『ひかりTV』と『ABEMA』で放送されると、その後の防衛戦は『Amazon Prime Video』『dTV』『Lemino』などが放映権を獲得し、地上波の放送はなくなっています。
民放各局が中継を見送っているのは、放映権料がとんでもなく高いから。井上がパウンド・フォー・パウンド最強クラスのモンスターに成長したことでファイトマネーは10億円単位の額となり、放映権料は20億円とも30億円とも言われています。これではテレビ局は手が出せず、動画配信サービスが優勢となっています」(週刊誌スポーツ担当記者)
スポンサーからの広告収入で番組作りをするテレビ局には、出せるお金に限界があるということなのだ。これは井上尚弥の試合だけに限らない。
「動画配信サービスや有料チャンネルが集客の目玉として人気スポーツの放映権を獲得する例は枚挙にいとまがありません。NBAの試合はかつてNHK BSなどが中継していましたが、2017年に楽天が放映権を獲得。F1はフジテレビのスポーツ中継の代名詞でしたが、BSフジを経て、CSの有料チャンネルや『DAZN』に。ツール・ド・フランスはかつてフジテレビが放送し、その後はNHK BSがダイジェストを放送していましたが、今は『J SPORTS』に。“見たければお金を払う”というスタイルが当たり前です。
現時点ではサッカーW杯やオリンピックは地上波やBSで見られますが、放映権料は大会ごとにグングン上がっており、無料で楽しめる時代は遠からず終わりを告げるはず。サッカーW杯はすでにアジア予選でDAZNの独占中継となった試合がありましたし、五輪の放映権も最早テレビ局が出せる限界に近づいている。テレビ朝日は長年続けた世界水泳から撤退するようですし、ゴルフのメジャー大会中継も風前の灯。MLBも大谷翔平の大活躍で放映権の大幅アップを狙っており、現在のようにBSで大谷の全試合を見られる状況が続くとは思えません」(同上)
地上波のスポーツ中継撤退で起こり得る「危機」
地上波がスポーツ中継をしなくなることで「別の危機を呼ぶ」というのは、元テレビ朝日プロデューサーの鎮目博道氏だ。
「見たい人はお金を払って見ればいいという意見がありますが、それでは裾野は広がらず、ファンは増えません。ファンが沢山いればグッズもチケットも売れるわけで、その芽を摘むとなると、ビジネス的にはどんどん厳しくなってくるはずです。
地上波の役目は裾野を広げること。それがなくなると、好きになるきっかけが失われますし、“本当は好きだけど、お金を払うほどではない”という人が見るチャンスも奪われてしまう。金持ちにしか許されないエンタメになってしまいます。今はニュース番組でも試合の結果すらやらなくなっていて、日本人がスポーツに親しむ機会が急減しています」(鎮目氏)
地上波による放送が減ると、さまざまな悪循環が生まれる。鎮目氏が続ける。
「地上波で放送されないとなると、企業がスポーツチームをスポンサードする動きがますます減っていくでしょう。地上波でユニフォームに貼り付けたロゴが映ると大きな宣伝になり、企業にもスポンサードするメリットが生まれますが、放送がないと企業宣伝の場もなくなるというわけです。ただでさえスポーツチームにお金を出す企業は減っているのに、その流れが加速していくことが予想されます。こうなると、子供たちにとってはスポーツをしても将来活躍できる場がないということになり、スポーツ界全体を狭めることにも繋がりかねません。
またスポーツ中継はアナウンサーの最高の晴れ舞台で、腕の見せどころですが、披露する場が減れば当然能力やノウハウは失われてしまう。撮影する側も同様で、中継のスイッチングなど技術的なクオリティはどんどん下がってしまいます」(同上)
かつてテレビ朝日は、西武の試合をずっと放送していた。鎮目氏は社員時代、「なぜ視聴率が取れない試合を放送するのか」と上司に質問したことがあったという。
「放送を続けていると日本シリーズを中継できるというメリットに加えて、ファンを増やすという狙いもある、と説明されました。将来的に見る人が増えることを願って種を蒔き、スポーツを育て、ファンを育てることでテレビ局も育っていくのだと。それは本当にその通りだなと思います。いま、スポーツ界でずっと継続して中継をしているものといえばNHKと大阪の朝日放送が放送している高校野球があります。視聴習慣として夏になったらチャンネルを合わせるという流れが根付いているのはもはや貴重で、なくしてほしくないと切に願います」
長期的に見れば、スポーツ界を跋扈する放映権料ビジネスは自らの首を絞めているようにも思えるが、現場の人間にしてみれば、目の前に積まれた札束の方が大事というのもまた事実ということか……。
(取材・文=石井洋男)