本当はかなり怖い『崖の上のポニョ』 宮崎駿監督が描いた「男性社会」の終焉

「ポーニョ ポーニョ ポニョ、さかなの子♪」
明るい主題歌がエンディングに流れることでおなじみなのが、宮崎駿監督の劇場アニメ『崖の上のポニョ』(2008年)です。
地上の文明が水没してしまうというディザスタームービーながら、人面魚のポニョを主人公にしたファンタジー映画として、興収155億円という大ヒットを記録しています。
8月22日(金)の『金曜ロードショー』(日本テレビ系)は、7度目の放送となる『崖の上のポニョ』です。一見すると子ども向けアニメと思われがちですが、宮崎駿監督ならではの社会風刺とアニメーターとしての狂気がほとばしる作品となっています。
よく観ると、かなり怖い『崖の上のポニョ』の水面下のメッセージを掘り下げてみたいと思います。
60代になり、引退するはずだった宮崎駿監督
宮崎駿監督は『千と千尋の神隠し』(2001年)で当時の日本の映画興収記録304億円(現在は316億円)を樹立し、米国のアカデミー賞長編アニメーション賞も初受賞しています。60代となっていた宮崎駿監督はアニメーターとして、やりきった感があったと思います。
細田守監督が途中降板した『ハウルの動く城』(2004年)は完成させたものの、若いころから愛読してきたファンタジー小説『ゲド戦記』のアニメ化(2006年)は、息子の宮崎吾朗監督に譲っています。そのままリタイアしても、おかしくありませんでした。
文明と自然は相容れないことを描いた『もののけ姫』(1997年)、スタジオジブリの総力を結集した『千と千尋の神隠し』を撮り終えた後の宮崎監督は、空っぽの状態だったはずです。
それでも、しばらくすると何か新しいものを作りたくなってしまうのが、クリエイターの業(ごう)というものでしょう。『水グモもんもん』(2006年)など「三鷹の森ジブリ美術館」向けの短編アニメを手掛けた宮崎監督は、新作のオリジナル長編映画の制作に着手します。
ジブリ版「セカイ系」の物語
アンデルセンの童話『人魚姫』をモチーフにした『崖の上のポニョ』ですが、ストーリーには伏線もなにもなく、宮崎監督が脳内で考えたイメージをそのままダイレクトにアニメーション化したような内容となっています。歴史考証が必要だった『もののけ姫』や超大作『千と千尋の神隠し』みたいな気負いもなく、手描きアニメーションの楽しさを宮崎監督自身が思い出しながら制作したような、初期衝動感が満ちています。
海の女神であるグランマンマーレの娘であるポニョは、好奇心が旺盛な人面魚です。陸地に近づいたところ、ガラス瓶が顔にはまって抜けなくなってしまいます。そんなポニョを助けたのが、人間の男の子・宗介でした。一度は父親であるフジモトに連れ戻されるポニョですが、宗介にもう一度会うために海底から逃げ出してきます。
ポニョは逃げる際に「命の水」を浴び、人面魚から半魚人へ、さらに人間の少女へと変身していきます。ポニョが海から逃げ出したために、世界の調和は大崩壊。大嵐の中、ポニョは宗介との再会を果たすものの、宗介と母親のリサたちが暮らす街は水没してしまい、人類は文明終焉の危機を迎えるのでした。
理屈や理論は説明されません。ポニョと宗介の運命的な出会いが世界を滅亡へと招くという、ジブリ版「セカイ系」の恋愛ファンタジーとなっています。
役立たずキャラに起用された長嶋一茂と所ジョージ
宗介の母・リサ(CV:山口智子)が活躍し、グランマンマーレ(CV:天海祐希)が物語の鍵を握る一方、宗介の父・耕一(CV:長嶋一茂)は貨物船の船長ですが、まるで活躍の場は用意されていません。ポニョの父・フジモト(CV:所ジョージ)も、空回りばかりしているキャラクターです。大人の男たちは、まったくの役立たずとなっています。
バブル時代に制作された『紅の豚』(1992年)では男たちが気取っていられた飛行艇時代をノスタルジックに描いた宮崎監督ですが、バブル崩壊後は男性社会の限界を悟ったようです。競争や対立を生む男性社会よりも、寛容性を重んじる女性社会がこれからの時代は求められていることを『もののけ姫』以降は描いているように感じます。
3.11以前に制作された『崖の上のポニョ』は、ハコモノ行政など男たちを中心にした政治の時代はすでに終わっていることを告げているのではないでしょうか。長嶋一茂や所ジョージの声優起用が、そのことをより強く感じさせます。
宮崎アニメで繰り返し描かれる「滅亡する文明」
宮崎監督はこれまでも滅亡する社会を繰り返し描いてきました。監督デビュー作となったSFアニメ『未来少年コナン』(NHK総合)は、核戦争によって破滅したディストピアの物語でした。劇場監督デビュー作となった『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)でも、滅亡した古代ローマの遺跡が登場します。
宮崎監督のブレイク作となった『風の谷のナウシカ』(1984年)と『天空の城ラピュタ』(1986年)も、やはり滅亡した文明の物語です。でも、なぜ宮崎監督は滅びゆく文明を繰り返し描き続けるのでしょうか?
高度にシステム化された社会が、人間の傲慢さによって崩壊するという題材は、映像化すれば非常にダイナミックなものになります。それに加え、宮崎監督の幼少期の体験も大きく関わっていることは間違いないでしょう。
惜しまれる、新しい街づくりへの興味
岡山空襲を体験した高畑勲監督が『火垂るの墓』(1988年)を撮ったように、6歳年下の宮崎監督も宇都宮空襲に遭遇しています。『君たちはどう生きるか』(2023年)で描かれたように、宮崎監督の実家は軍需産業で戦時中は大変羽振りがよかったそうですが、戦後は会社を手放しています。宮崎監督は幼少期に、大日本帝国の崩壊を体感していたことになります。
敗戦した日本は高度経済成長によって復興を遂げましたが、男性主導の社会であることは根本的には戦前から変わってはいません。そんな男性社会がすでに限界に達していることを、宮崎監督は『崖の上のポニョ』で、改めて告げているように思えるのです。
この時期の宮崎監督は『虫眼とアニ眼』(新潮文庫)を読むと、高齢者と子どもたちが安心して暮らせるコミュニティーづくりに強い興味を持っていたことが分かります。『崖の上のポニョ』でリサが働く老人ホームと宗介が通う保育園が隣接している設定などに、その片鱗がうかがえます。実際にスタジオジブリ近くに社員アニメーターたち専用の保育園を新設し、初代園長に宮崎監督は就任しています。
長編映画からの引退を考えていた宮崎監督が、新しい街づくりをセカンドライフのテーマにし、真剣に取り組んでいれば、面白い結果を残していたかもしれません。
愛は奇跡を呼ぶが、呪いにもなりかねない
多幸感あふれるエンディングとなっている『崖の上のポニョ』ですが、宗介は大変な重荷を背負わされているように思えてなりません。ポニョへの愛情が醒めたら、世界は再び恐ろしいことになってしまいそうです。物語の終盤、リサとグランマンマーレがどんな密談を交わしたのかは、宗介本人にもその詳細を知らせるべきでしょう。
本来なら、ここで出番の少なかった耕一が現れ、「10年後、15年後に改めて考え直すことにしよう」と父親の立場からひと言あってもよかったと思います。いずれにしても、5歳児である宗介に、人類の未来が託されることになります。
宮崎アニメは、「破滅する文明」に加え、“呪い”もたびたびモチーフにしてきました。『崖の上のポニョ』では“愛”が奇跡を起こすわけですが、同時に“呪い”にもなりかねないと思った次第です。宗介は一生、ポニョから離れることができないわけですから。『崖の上のポニョ』って、かなり怖いアニメではないでしょうか。
文=映画ゾンビ・バブ