女性皇族の成年式では、「エプロンみたいな布」を後ろに巻く? 知られざる皇族の儀式

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回に続いて今回は女性皇族の成年式についてうかがいます。

目次
・悠仁さまと違い、愛子さまには成年式がなかった?
・天皇陛下と皇太子殿下、悠仁さまだけの権威とは?
・なぜ女性皇族は洋装で、男性皇族は和装?
・皇族の成年式は「13歳前後」だった
・女性皇族の成年式では、「エプロンみたいなもの」を巻く?
悠仁さまと違い、愛子さまには成年式がなかった?
――明治時代以降、女性皇族には成年式が公式に執り行われなくなったと聞いて驚いています。区が開催する成人式の集いにも参加なされないでしょうし、さみしいですね。
堀江宏樹氏(以下、堀江) 9月7日の「東京新聞」が、「皇族数減・男女差『考える機会に』」という見出しの特集記事を組んでいます。そして京都産業大名誉教授の所功さんによる「『男女差』の見直しの必要性」の「指摘」について紹介しています。
それによると「1909年(明治42年)年に定められた『皇室成年式令』では、古来続いていた女性皇族の成年式が明文化されず、成年式令が終戦直後に廃止となった後も、女性皇族の成人儀礼は途絶えている(略)皇族として抱えている務めの重さに男女の差はない」のに……などとありますね。
女性皇族――たとえば愛子さまも成年式に相当することを何も行わなかったわけではないのですよ。愛子さまがローブデコルテをお召しになり、額にティアラを輝かせながら、笑顔で撮られたお写真、ありましたよね?
――はい。しかし、なぜ女性皇族は洋装で、男性皇族は和装というか、装束姿なんでしょうか?
堀江 男性皇族である悠仁さまが成年式でお召しになっておられた束帯は、日本の古式装束における男性の最高礼装なのです。それなら、愛子さまもいわゆる「十二単」――五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)をお召しになったお姿を成年の記念に国民に見せていただきたかった……と思う気持ちはたしかにあります。
実際、悠仁さまが成年式で着用なさった束帯は特別なもので、成年式でしか見られないもの。あの実に長い、6メートルにも及んだという裾も、皇族の権威の象徴なんですね。
天皇陛下と皇太子殿下、悠仁さまだけの権威とは?
――皇族の権威というものを愛子さまもまとっていただきたかったです。
堀江 日本において、古式装束の長い裾を誰かに捧げ持ってもらえるのは天皇陛下と皇太子殿下、もしくはそれに類する存在――ちょうど将来の天皇と目される悠仁さまのような方だけなんです。
束帯の裾の長さは身分の高さに比例し、平安時代くらいから伸び始めた記録があります。あまりに熱心にみんなが長さを競い合うから、禁止令が出たほど。
私も、とある有識者の方のご協力のもと、束帯を着せてもらったことがあるのですけど、あの裾の長さと、重さには驚いたものです。
鎌倉時代の大臣の記録で、1丈4~5尺(約4.2~4.5m)とありますが、悠仁さまの束帯の裾はなんと6メートル……。たとえ「裾捧持」のお役をつとめた小山永樹宮務官長がいらっしゃったとはいえ、歩行自体が大変だったと思います。儀式の前日に何時間にも渡ってリハーサルを行われたと聞きますが、それもよくわかります……。
――「十二単」は重いと聞きますが、束帯も重いですか?
堀江 束帯は「重い」というか、特殊な織り方の絹布なので、一歩踏み出すたびに空気の圧みたいなものを感じますね。具体的に重いのは、やはり長い裾です。
あれは束帯の一部というより、その内衣にあたる「下襲(したがさね)」と呼ばれる、いわば下着の一部なのですけど、悠仁さまがお召しになられた皇族男性しか着用できない特別な儀式用束帯は、装束本体と裾が一体化した「続裾(つづききょ)」だったと思われます。だから通常の束帯よりさらに重たいのではないかと……。
束帯の着こなしに脇に差す刀は必須なので、その鞘(さや)に裾をかけたりするのもアリなのですが、そうなると腕が疲れてくる。昔の貴族は束帯姿で宮中に出仕し、仕事していたらしいのですけど、みんな体幹が鍛えられた筋肉質だったのではないか……と思いました。
なぜ女性皇族は洋装で、男性皇族は和装?
――絵巻物だと貴族たちの顔は下ぶくれだし、装束の下もぽっちゃりしてそうですけど違うんですね。
堀江 だいぶ筋力がいる世界だな、と感じましたよ。――で、またもや脱線してしまいましたけど、女性皇族がローブデコルテにティアラで、「十二単」ではない理由について、私の考えをお話ししていませんでした。
男性の束帯も、長い裾が重そうとか、歩きづらそうと思いますが、女性の古式装束における最高礼装「十二単」は、最低でも10~15キロくらいあるのではないでしょうか……。 つまりそれを着て、男性同様にわりと動きがある成年儀式を執り行うのはなかなか厳しい気もするのです。
また美智子さまの代から、女性皇族が古式装束をまとう際の髪形である「おすべらかし」もカツラでよいということになりましたけど、あれも地毛で結うとなると、夜明け前から髪の毛をギュウギュウ引っ張られ、その痛みに涙を流しながらセットしていく必要があるので、もう大変だったのですね。
まだカツラが認められていない明治時代初期に女性皇族の成年式が、古式装束ではない洋装になったのは、男女の体力差も考慮してのことだったのではないか……とも想像されます。
そもそも明治時代以前の女性皇族の成年式も、男性皇族にくらべると儀式張らず、内々で家庭的といえるようなムードで執り行われていましたし……。
皇族の成年式は「13歳前後」だった
――明治以前の皇族がたの成年式とはどのようなものだったのでしょうか?
堀江 それ以降とはかなり違います。史料に残っている成年式を挙げた最も古い例は奈良時代の聖武天皇だったのですけど、平安時代以降のほうが記録がより詳細なので、それをご紹介しますね。
当時の男性皇族は「11歳より16歳の間」(『図説 天皇の儀礼』新人物往来社)、もしくは「13歳前後」(『皇室事典 令和版』角川書店)で成年式を挙げました。また男性皇族は、お正月の夕方から、儀式を行った記録が多いそうです。
儀式の舞台は天皇の主御殿――そして政治や重要儀式の場でもあった紫宸殿です。成年式の主役である皇族男性は、まず未成年用の束帯――両脇が縫われずに開いている「闕腋袍(けってきのほう)」に「空頂黒幘(くうちょうこくさく)」という額当て姿で登場するのです。
そして、担当の大臣の手で、成人用の冠を頭上にのせてもらってから、「かけまくも畏(かしこ)き天皇(すめらみこと)が朝廷(みかど)、今月の吉日(よきひ)に御冠(こうぶり)加え賜ひて、盛んに美しき御貌(おんかたち)人と成り賜ひぬ(以下、略)」……という祝詞(のりと)を大臣に読み上げてもらうわけです。
その後も儀式は続きますが、省略。それでも悠仁さまが儀式でお召しになっていた装束、そして天皇陛下を前に読み上げられたお言葉なども、この平安時代の伝統に連なるものであることがおわかりいだけると思います!
それに対し、女性皇族の成年式は12歳から14歳の頃(前出『皇室事典』)、正月には関係なく、暦で吉日・吉時を選んで執り行われました。
女性皇族の成年式では、「エプロンみたいなもの」を巻く?
――やはり夕方以降ですか?
堀江 そうです。夜が多かったそうです。しかし、この頃から女性皇族の成年儀式といえば、高貴な女性たちが暮らす後宮内――つまり私的空間に設けられた儀式会場で、天皇か大臣が、成年式を迎える女性の腰に「裳(も)」と呼ばれる長い絹の布を結んでさしあげるのです。
これを「着裳(ちゃくも)」といい、成人女性の象徴である「裳」を「着せる」から、古来、女性の成人式は男性の「元服」に対して「裳着(もぎ)」というのでした(以上、『皇室事典 令和版』)。
――ずいぶんとシンプルですね!
堀江 それに「裳」っていうから特別に聞こえるけど、実物は薄手で白地の長い絹布に、手書きで松竹梅や鶴などの吉祥模様――つまり縁起物のモチーフが描かれただけのずいぶんシンプルなものですからね……。
実物を眼前で見たことがありますが、「エプロンみたいなものです。今のエプロンとは違って、後ろ向きに腰から垂らすようにして付けるのですが」と説明されました。
――なるほど……。明治時代に、成人した女性皇族の高貴さとか権威を象徴するアイテムが、「裳」では世界水準ではなかなかに理解されないだろうから、ティアラとローブデコルテという洋装になったのがわかる気がします。
堀江 もし、一部の新聞の指摘のように女性皇族も男性皇族同様、古式装束をまとって儀式を執り行うとなると、男性みたいに平安時代から続く成年式のアレンジというわけにはいかず、ほとんど全てが21世紀の創作儀式になってしまうのですよ。 女性の場合は、古式ゆかしくない儀式になることは必定です。
たしかに21世紀においては、皇族がたの成年式が男女で異なっており、それがまるで待遇をめぐる男女差のようにも思えますし、実際に歴史的に見て、それはそうなのでしょうけど、それをどう是正したらよいのかについては、「ご指摘はごもっともだが、現況がもっともよき形なのでは……」というのが私の見解です。