『おむすび』第74回 橋本環奈にウンコを触ってほしいんだ、切実にそう思うんだ
昨日はやっぱり、見てる側としても緊張してたんですよね。個人的には何か具体的な被害を受けたわけではないけれども、記憶に新しい東日本大震災が劇中で扱われるということで「心して見なければ」という、もっと言えば「半端なことしたら許さねーぞ」という感じになっておりまして、ちょっと「フラットに朝ドラを楽しみましょう」といういつものテンションとは違っていたことは否めないわけで。
なので、一部筆が滑ったなと思う部分がありましたので、先に訂正しておきたいと思います。
チャンミカ(松井玲奈)の家に泊まるはずだったアユ(仲里依紗)が帰ってきて、結さん(橋本環奈)と台所で話し込む場面。アユは自身の震災体験から、避難所の被災者たちを思って「不安だろうね、特に今夜」と言います。避難所での最初の夜がいちばん不安だったと。
その場面について、昨日は「もう完全に事態を把握した体で思い出話が始まる。夜明け前ですよ。どこそこの海岸に何百体の遺体が打ち上げられているとか、そういう情報がリアルタイムで発せられている最中です。『避難所で大切な人と一緒に~』じゃないんだよ。まだ生き死にの時間なんだよ。病院の屋上に人が取り残されてるの」と書きました。
あれだけの大きな地震が起こって、津波が押し寄せた最初の夜、避難所にたどり着けているのは比較的被害の少なかった地域の人であって、まだ多くの人が津波や火災の中にいる、施設の屋上に取り残されている、そういう「避難所にいる人」よりもっと命の危険が迫っている人に思いが至らないアユにムカついていたわけです。
でも、阪神と東日本では「最初の夜」の意味が全然ちがうんですよね。阪神は朝の5時46分。地震発生から日没まで丸1日の時間があって、昼間に避難所に移動することができた人が多かったんでしょう。
一方の東日本は14時46分。この日の仙台の日没は17時39分です。3時間後には真っ暗になっているし、被害の範囲も阪神とは比べ物にならないほど広い。だから多くの人が避難所にたどり着いていない。そういうことが起こっていた。
アユが東北の震災のニュースを見て、中学生のときに体験した「最初の夜の恐怖」を思い出すことは自然だし、胸が詰まって情報を遮断する気持ちもわかる。そのうえで、自分の体験と重ねて「最初の夜の避難所」に思いを馳せるというのは、阪神・淡路大震災被災者が遠くで東北地震の報道に触れたときの心の動きとして、その「距離感」を描いてリアルな描写だったのかもしれないと思い直しました。
なんかごめんね。
なので今日は、その東北と関西の距離感というものを意識しながら見ましたよ。NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』第74回、振り返りましょう。
距離感とかじゃねーわ
距離感を意識してみると、わざわざ大阪のアパートまで「お礼」を言いに来たカスミン(平祐奈)は時間と交通費を無駄にしているなと思うし、栄養士として避難所でできることを見つけたわりには「今、被災者のためにできること」より「結へのお礼を言うこと」を優先していて、なんだかなーという感じです。それは半年後でいいよ。
そこでカスミンから語られたエピソードも、わざとやってるのかと思うくらい雑なものでした。
避難所のおじいちゃんはこの1か月、おむすびとカップラーメンしか食べていないという。それを聞いたカスミンは「炊き出しさせろ」と要望してホカホカのワカメおむすびとサバツナけんちん汁を作るわけですが、その精米と缶詰はどこから湧いて出てきたのでしょう。もともとあったならとっくに出してただろうし、栄養士じゃなくても「あったかいものを作ろう」という動きは自然発生しそうな気もしますが、あくまで「栄養士に手柄を振りたい」というドラマの下心が見えるところです。
そして、気仙沼は魚介が新鮮だから被災者も缶詰に拒否感があるという。気仙沼にいくつ魚介類の缶詰工場があるか知ってますか? 気仙沼に住む人だったら、むしろその缶詰が精魂込めて作られていることを知っていて、こういうときこそありがたいものであるという受け取り方をするほうが自然ではないですか? と思うわけです。「こんなときでも缶詰は食わねえ」という描写は、いかにも外の人間が「東北人は頑固」というステレオタイプを押し付けている感じがします。
そうしておむすびとけんちん汁を供されたおじいちゃんは、入れ歯が流されたから固いものは食えないという。カスミンが作ったおじやを口にして「久しぶりに米食った」と。じゃあこの1か月、何を食って生きてきたのか。
カスミンの作ったおじやの価値を上げるために、これまで配布されてきたおむすびとカップラーメンを貶めるという作業が行われているわけです。それだって、誰かが必死にかき集めて、道なき道を乗り越えて、瓦礫をかき分けて届けてくれたものなのに。
もうね、距離感とかじゃねーわ。市井の人、その営みに対するリスペクトの欠如だわ。
そうして避難所における栄養士・カスミンの「大手柄」「大活躍」「大満足」を演出しておいて、その手柄のすべてを「結ちゃんのおかげやで」と主人公に委譲している。
それを結は「そっか」とか言いながら、玉座でただ悠々と聞いているのです。全部、結様の思し召しなのです。なんだこの人、徳川家康なのかな。これで育児に忙殺されている描写が少しでもあれば「結は結でやるべきことをがんばってる」という印象も出せるんですが、橋本環奈に赤ん坊のウンコを触らせるわけにはいきませんか、そうですか。
みんな玉ねぎになーれ
一方そのころアユはナベべ(緒形直人)に「ギャルにしかできないことをやれ」と言われて、唐突に岩手出身のギャル友・アキピー(渡辺直美)を思い出します。
ここも変なんだよな。ナベべがチャンミカに「納品を遅らせたい」と連絡をして、アユが「具合でも悪いん?」と訪ねてくる。ナベべ、仕事にブランクがあるのはわかるけど、取引先に納期の遅れの連絡をする際に「東北に送る靴を手配するから」って言ってないのは不自然すぎるんです。
ナベべが口下手で何も言わなかったとしても、チャンミカが「何かあったんですか?」と聞き返すでしょう。こういうところで、アユ、チャンミカ、ナベべの3人が結んでいたはずの人間関係がリセットされるんです。この3人の関係も確か「結さんが結んだ」とされていたはずですが、ドラマ自らがその「人の結び」を断ち切ってくる。こういう迂闊さもいちいち引っかかってくる。
アユが1か月もアキピーについて忘れていたのもおかしいよね。東北であれだけの地震が起きて、「東北に誰か知り合いいなかったっけ」と、これまで一度も考えていないということです。「最初の夜」に「やるのは私だよ」と言っていた人が。そしてそれを「ギャルにしかできないことをやれ」と言われるまで思い出さないということは、この1か月、アユはギャルではなかったということです。「どんなときでも自分らしさを大切にする“ギャル魂”」はどこへ?
1か月、何も考えないし何もしてなかったアユが、ナベべのひとことでスイッチが入ったように東北のために奔走する。『おむすび』に登場する人物の心の動きは、いつだって「0→100」です。どん底にいる人が「ギャル」という呪文によって覚醒するばかり。
私たちが見たいのは「0→1」や「16→23」、それに「49→51」や「99→100」のプロセスなんです。特に東日本大震災のような国全体を巻き込んだ大災害からの回復を描く場合、多くの視聴者は登場人物に心を重ねたくなるはずです。
みんな、ドンって一気に元気になってないよね。日々、刻々と変わる被災地の状況に動揺しながら、それぞれに周囲の人やネット上なんかに痛みを吐き出しながら、助けられながら、少しずつ心を落ち着けていったよね。自分はこうだった、アユや結はそうだったんだ、みんな大変だったよな、しんどかったよな。そうして、彼女たちが少しずつ日常を取り戻していく姿に寄り添いたかったんです。
糸島時代、玉ねぎの野菜染めの制作工程にほぼ15分のすべてを費やした回がありました。玉ねぎを剥いて、煮出して、染めて、乾かして、ようやくあのきれいな野菜染めが出来上がる。
あそこで丸のまんまの玉ねぎが出てきて、「5時間後」ってテロップが出て、次のシーンで野菜染めが完成していたら興ざめでしょう。
人間だって同じなんです。急に変わったら興ざめなんです。誰かの手によって1枚ずつ心の皮を剥かれて、さまざまな人の影響を受けて変わっていく。やがて美しいものになる、その段階にこそ描く価値があるんです。
人間には、野菜染めのような既存のレシピはありません。それを作るのがドラマの仕事です。がんばってください。
(文=どらまっ子AKIちゃん)
◎どらまっ子AKIちゃんの『おむすび』全話レビューを無料公開しています
第1話~第56話
https://note.com/dorama_child/m/m4385fc4643b3
第57話~
https://cyzo.jp/tag/omusubi/